三覚理論

調和に導く「調律の理論」とは

「それは、何に影響を与えたのか、何がそうさせたのか、そしてどうなっていくのか。」
なぜ私たち人間は争いを繰り返してしまうのでしょうか。
命の数だけ意見があり、そこには様々な理由があるので明確な答えはありません。

「争いとは対立であり、対立は二元論から生み出されている。」
しかし私は、私たちの根底にある二元論的な思考が要因なのではないかと考えました。

2つに分けるという二元論的な発想は物事を簡略化することが出来る一方で、そこには欠点もあります。
それは、“分かれたものは惹かれ合い、一方がいなくなれば他方も消滅するという、永遠の共依存関係を生み出していく”ということです。

過去の偉人が自分に見える世界を残してきたように、私も、私の見える世界をここに残そうと思います。
それは、二元論を越えた“三元論”の世界です。

私は、ある時、“垂線の先に記号の座標が刻まれた三角形に配置された柱”を見ました。
その瞬間、“言葉が走る”という感覚を理解しました。
そして同時に「やがて認識が一変する時代が必ず来る。」と私は悟りました。

なぜなら、今そこにある言語や理論などフレームワークのすべては二元論の観念を超えていないのだから。

三覚理論とは何か。
それは、均衡に揃った三点等価の観点 (すなわち、調和の観点)から、観念となる座標を導き出すことで、納得感を生み出しながら”ある座標”に到達しようとするものです。

また、この三覚理論を扱う上で重要な要素となる“揺らぎ”について、私は定性・定量に続く第三の要素として、“定振”と名付けました。
三点から導かれる垂線は揺らぎによってその座標を変えるため、新たな座標を言語化/具現化すること自体が、新たな概念を生み出すきっかけとなるでしょう。

さらに言えば、例えば、時間の概念は一般的に、現在・過去・未来とされています。
点(現在・過去・未来)と点を結ぶと線(現在→過去or未来)になり、線から平面(現在→過去→未来)となります。
つまり、平面の最小構成は三角形であることが分かります。

しかし私が三覚理論で追求したいことはさらに次の段階にあります。
すなわち、平面から立体です。

それは、三角形の観点が結ぶ先の座標を捉えることで、新たな立体の軸が誕生するということです。
私はここに光明を見出しており、もしかしたら二元論では到達できなかった、三元論だからこそ導き出せる誰も見たことがない黄金の概念になるかもしれないと考えています。

「美しさの源は均衡にある。二元論からは生まれない。」
「そして美しさとは、相反することが共存すること。完全では無いことに意味がある。」

そもそも、なぜ人間は美という概念を生み出したのでしょうか。
私の結論は、“完全になれないこと”に対するアンチテーゼだと考えています。

では、人間の美しさはどこにあるのでしょうか。
結論から言えば、“美しさとは関係性の間に宿る”と考えています。

では、美しさが感じられる状態とは何か。
それは相反することが共存すること”なのだと思います。

この世に存在するあらゆる生命は意味連関的に連なっており、言い換えれば、命の数だけ美しさが存在している。
そして、だからこそ“人間の美しさは相対的である”と考えています。

例えば、私が美しいと感じるのは、自分が美しいと思ったからそう思うだけであり、その美的価値基準は必ずしも万人共通のものでもありませんし、私自身の主観に委ねられている部分が多いでしょう。

「感情の乗らない経験値はただのデータであり、そこには情感が宿らない。」
美しさとは、放つ側の斥力の観点から語られることが多いですが、実は引き出す側の引力或いは知覚する力によって、その対象は活かしも殺しもされるのではないでしょうか。
だからこそ“主観的な想い”を押し付けるということは、他人に対して無力なものだと言えるでしょう。

次世代の人間には、内在化されたものを引き出す力と、それを発露する力が求められていると考えます。
そして、その力によって“礼節を以ってお互いに美しさを引き出し合う関係”を築く必要があると考えています。

難易度は非常に高いですが、もしも自らに備わる美しさと対象に宿る美しさを引き出し合うことが出来たならば、私たちは“美しさを万人のものとすること”が出来るのではないかと。

それはすなわち、離に宿る美がアルゴリズムを超えて人類の新たな光となる。
言い換えればそれは、“人間がこの世界に介在する価値がそこに見出だせる”ということです。