次世代継承学

【第105話】ヒューマニズム VS ポストヒューマニズム

「サイボーグが差別用語になる日が来る。それを聞いた瞬間に鳥肌が立ちました。」

アニメの脚本を書かれている方とお話をした際に、人間の捉え方について考えさせられました。

■「我々が人間である以上、伝統的な人間中心主義を推進するべきだ。」
・人間の特異性と優位性を強調。
・人間の行動、意識、文化が研究の中心。
・社会構造や人間関係の分析に重点。

■「これからはポストヒューマンを見据えた新たな人間観が必要だ。」
・人間とモノの関係性を平等に捉える。
・バイオテクノロジーとAIの進展による人間の能力増強と遺伝子改変。
・社会の理解において物質的なものの役割を再評価。

■理想と現実の間

「人間社会は自然状態においては、ほしいものを獲得するため、お互い争い続ける状況となる。」
イギリスの哲学者トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』において、万人の万人に対する闘争を唱えました。

しかし、その自然状態について指摘させて頂きたいことがあります。
また、これまでのすべての社会科学と人文科学の学問分野において前提となっている条件があります。

盲点、死角となっているものの正体。
それは、自然環境です。

「これまで人類が叡智を集結させてきた学問の前提条件は、地球が豊かであること。」
この事実に気付いた時、体系的な知識のほとんどが人間中心主義で考えられたものであることを痛感させられます。

「民族や国家の枠を超えて人類全体をひとつの世界の市民とみなす。」
紀元前300年代からコスモポリタニズムの概念は存在していました。
それは、ギリシャ語の「kosmos(宇宙、世界)」と「polites(市民)」を組み合わせた言葉と言われています。

しかし、だとするならばそこで疑問が浮かびます。
そもそも、コスモという言葉に自然環境の概念は含まれているのでしょうか。

そう、おそらく無いのかもしれません。

本来ならコスモではなく、「geo(宇宙、世界)」を用いるべきだったのではないかと。
言うなれば、ジオポリタニズムとでも呼ぶべきだったのかもしれません。

とはいえ、コスモポリタニズム思想を一度は保有していたのは事実です。
しかしその後、イエス・キリスト降誕による西暦のA.D.が始まると宗教全盛の時代を迎えます。
そして14世紀イタリアを中心にルネサンスで人間の能力や知識を重視する思想、人文主義運動が再興しました。

そのヒューマニズム信仰がSDGsを経た今もなお続いていると。

ナチュラルなヒューマンがBTとAIにより変わろうとしています。
遺伝子組み換え人間やサイボーグはポストヒューマンと呼ばれるべきなのでしょうか。

それはつまり、人類や人間を一括りに語ることの出来ない時代がやってくるということです。

「フラット・オントロジー(ヒトとモノの関係性を平等に編み直すこと)という視点から、ポストヒューマニズムを構築すること。」
この分野については、その揺れ動きが起きていることがとても面白いと感じました。

三覚理論で言えば、ライフ、ジオ、モノの三点から調和を見出すことに繋がります。

■乖離を埋めるための具体的な手段例

  1. 多様な視点の統合: 人間と非人間要素の相互作用を考慮した研究の促進。
  2. 新しい方法論の開発: フラット・オントロジーおよびポストヒューマン論に基づく新しい社会学的手法の開発。
  3. 実践的な研究の促進: 理論と実践を統合した社会学的研究の推進。
  4. 教育プログラムの改革: 社会学の教育プログラムにおける新しい視点の統合。

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コメント

  1. パルグラ

    お、今日はたまたま立春大吉ですね!
    そんな日にコメントできたこと、我ながら嬉しく思います!

    ヒューマニズムとポストヒューマニズムの話は近年、多方面からお話をきくのでこちらのブログでも触れる機会があり嬉しい限りです。

    ポストヒューマニズムという言葉を知らない方も多いと思いますが、ここでは定義はブログを参照してもらうとして、
    私の意見としては、まだまだ知名度で言うと全然な気がしますが、ここ近年でのAI技術の発達や、環境汚染や環境破壊、国家間での戦争の影響を受ける中で、現在たくさんの方々が着目しており、今後は数ある概念や哲学の1つとして影響力を持ち台頭してくるのではないかと考えております。

    多くの人が、AIの台頭によって人間を超えた存在になると考えるとは思いますが、逆に言うとポストヒューマニズムによってもたらされる人間不在の世界を議論していくことは、当然ながら、結局はヒューマニズムに起因するものでもあると思っております。

    また毎回たのしいブログですが、今回私が特に響いた文章は下記になります。
    「これまで人類が叡智を集結させてきた学問の前提条件は、地球が豊かであること。」
    体系的な知識のほとんどが人間中心主義で考えられたものであるという文章に非常に共感と痛感を覚えました。
    そして同時に人間中心主義といった「人間」的なるものの境界線もまた、日々形を変えて行っていることに気づくことができました。

    そして、「フラット・オントロジー(ヒトとモノの関係性を平等に編み直すこと)という視点から、ポストヒューマニズムを構築すること。」と共に必要な考えは、ポスト・ヒューマニズムが様々な要因によって加速する今の時代の状況において、ヒューマニズムの再設定(または人間の境界線)を振り返る視点なのではないかと、ちょっと大袈裟ですが、このように感じました。

    最後に目指すべきものは、人と地球の共生か、それとも生命と地球の共生なのかという問いについては、人間は自然と文化の両軸の環境に成り立つとおもってます。
    それはつまり生命と地球の共生とも言えるかもしれない、、そんな気がしますね!

    以上です!!!
    本日も楽しいブログありがとうございます!

    • 青木コーチ

      コメントありがとうございます!

      「人間的なるものの境界線もまた、日々形を変えて行っている」
      この言葉が印象に残りました。

      先日イーロン・マスク率いるニューラリンクが、脳にチップを埋め込む治験を実施しました。
      まさに、人間拡張が始まろうとしています。

      それは同時に、ナチュラルな人間とポストヒューマン(一部機械化)は、同じ権利を持つべきかという問いを始める必要性を呼び起こします。

      例えば、性転換した男性だった女性のレコード記録は女性として適用すべきか男性として適用すべきか。
      それとも新たなジャンルを作るべきかという議論と似ています。

      ポストヒューマンに議会議員は認めるのか否か、同じ労働環境を認めるのか否か。
      「サイボーグは疲れないなら、一日8時間以上働けよ!」という声が出るかもしれません。

      ヒステリックな人間は、居住空間を共にするのを嫌がるかもしれません。
      生理的に無理とか、まるでピエロ恐怖症のように機械恐怖症が新たな課題に追加されるかもしれません。

      その境界線をどうすべきか本気で考えるべき時代が来ているのだと、そんなことを考えさせられました。

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