事例分析

【CASE22】ポリコレから考える多様性の未来

今回は、「ポリティカルコレクトネス」の観点から、「多様性」の未来について考察していきます。


問題提起

現代社会において、多様性を推進する取り組みは、企業や個人の間で広く受け入れられています。
特にポリティカル・コレクトネス(以下、ポリコレ)の導入は、差別や偏見を抑制し、社会的正義を追求する上で重要な役割を果たしています。
そして映画やゲーム、文学においても、多様性の尊重が進められ、キャラクターやストーリーがより幅広い人々に共感されるようになっています。

「デンマークの童話である『人魚姫』が、そしてアニメ版では赤毛の白人である人魚姫が、なぜ黒人になるのか?」
しかし、この多様性推進が行き過ぎると、心理的なフラストレーションを生むこともあります。

例えば、実写版『リトル・マーメイド』のアリエル役にアフリカ系が起用されたことで、SNSではとんでもない騒ぎ(大批判)が起きました。
他にも、従来のヒーロー像がポリコレの名の下に変更されたり、文化的な背景を尊重するという理由でストーリーの本質が損なわれたりすると、消費者は違和感を抱き感情移入が難しくなります。

こうした現象は、個人の価値観に影響を与えるだけでなく、社会全体の規範や倫理観にも影響を及ぼす可能性が想定されるでしょう。

ポリコレに伴う多様性の進化と美化。
これからますますこの現象が社会全体に波及していった場合、未来の私たちにどのような変化をもたらすのでしょうか。


背景考察

ポリコレの表向きの理由は、人種や性別、性的指向、宗教といったさまざまな側面での差別をなくし、すべての個人が平等に尊重される社会を目指すものです。
またその運動はWoke思想とも言われており、それは、目覚めた/悟った人々が人種的偏見と差別に対して警告を発することで世界を変えていくというものです。

「マスメディアや歴史は捏造の温床だ!騙されるな!目覚めろ!日本人!!」
つまり、目覚めた結果がWoke思想であり、ポリコレだったということです。

しかし、ポリコレ/Wokeは本当に社会の多様性を守る手段になっているのでしょうか。
視点を変えれば、多様性を均質化し、表現の自由を狭めていく契機を生み出しているのかもしれないと。

これについて別の例を挙げますと、『アサシンクリード シャドウズ』というゲーム作品が引き起こした騒動が記憶に新しいです。
アサシンクリードシリーズは時代考証や史実を再現することに定評があり、新作の舞台が日本であるということで世間からの関心も高い作品でした。
もっと言えば、近年『Ghost of Tsushima』という日本を舞台にした別会社の作品が世界的評価を得ていたため、「アサクリならもっとこうやってくれるんじゃないか‥!」という期待感がありました。

「歴史に名を遺す屈強なアフリカ人の侍が主人公です!」
しかし本作は、日本の歴史を舞台にしながら、戦国の英傑達を脇においてなぜか黒人侍である弥助が主人公に抜擢されました。
もちろん弥助は史実にも登場する人物ですが、史実での存在感は非常に希薄であり、ポリコレ的な意図が作品に反映されたことが否めないものになっていました。

と、ここまでならば制作会社であるUBIソフトの忖度、或いはアジアへの差別的な態度や物言いが批判の的になって終わるはずでした。
しかし、実はUBIソフトの背景には、大きな闇が渦巻いていました。

その1つが、本作の制作過程において、過激なWoke思想のコンサル会社スイートベイビーが絡んでいたことです。
この会社は、「Diversity(多様性)」「Equity(公平性)」「Inclusion(包括性)」の頭文字を取ったDEI戦略を促進させることを主としています。

「700万ドル(10億円)のコンサル依頼を吹っ掛けて、断ればゲームレビューサイトでポリコレ制裁を下す会社があるらしい。」
しかし脅迫まがいの手口が話題で、コンサル依頼を断れば世界的なレビュー集約サイトでメタスコア(要するに面白いかどうかの評判)が下げられると。
最近では、西遊記をモデルにした『黒神話:悟空』を手掛けた中国のゲーム開発会社遊戯科学にも同様の手口を敷いていたようです。

ゲーム会社が無視出来ない事情を作り出して、ポリコレ推進会社がコンテンツを染めていく。
つまり、大手会社や権威者と癒着してポリコレ推進を発動する過激なやり口が悪名高く知れ渡っている会社がUBIソフト(アサクリ)の背後にいたということです。

「Wikipediaを見ると、数年前から誇張された追記・修正が成されている。アカウント主は誰だ?これはどういうことだ?」
そしてもう一つが、Wikipediaを用いて歴史の改ざんをしていた人物が背後にいたことです。
アサクリの新作で弥助にスポットライトが当たり、Wikipediaを調べた方々が違和感に気付きました。

そう、英語版と日本語版、それぞれのWikipediaでアカウントを使い分けて「弥助」の項目を改ざんしていたことが発覚したのです。
言ってしまえば、トーマス・ロックリー氏がその項目を都合よく改ざんして、しかも自身の著書に引用するという歴史改ざんを行っていたと。

「記憶している人間や指摘できる人間がいなくなれば、いつしか嘘は真実になる。」
書籍を出して耳目を集めれば集めるほどそれはやがて史実になっていく。
つまり、全人類に開いた知を巡る公共の場が歴史を改変する場になっていたということです。

「ポリコレの精神が歴史や文化の改ざんを許容し、事実を歪めていくのではないか?」
『アサシンクリード シャドウズ』にまつわる問題は、多くのファンにとって、日本の文化や歴史が西洋的なポリティカル・アジェンダにねじ曲げられたという違和感を与えたと考えられます。
また、言い換えればそれは、「多様性の追求」が一方的な価値観の押し付けになり、他の声を排除してしまうという現象が起きているということです。

そもそも個々のアイデンティティを尊重するはずだったポリコレが、実際にはある特定のグループや価値観を優先し、他のグループや意見を排除する「斉一性」を生み出していたと。
その事実は、ポリコレが一種の新しい権威主義、いわば「ポリコレ・ファシズム」(※造語です)として機能し始めているとも考えることが出来るでしょう。

こうした状況下で、創作の自由や個人の表現がどのように制限されていくのかを考えると、非常に不安定な未来が見えてきます。

「黒い服は死者に祈る時にだけ着るの。」
こちらは、宇多田ヒカル『COLORS』の一節です。
人それぞれの色彩感覚が幻のように曖昧な世界をそれぞれ彩るという、音に色が見える自らの世界観を照らした歌です。

これに例えるならば、そこに夜の帳を表現したあなたのお気に入りの黒色の傘があるとします。
ある日突然、黒は縁起が悪いし嫌がる人が多いので他の色やデザインに変更しようと隣人や見知らぬ人が言ってきて、不本意ながら赤色に塗り替えてしまった。
するとその傘は、まだ雨を凌ぐという意味では機能的であるにも関わらず、あなたにとってはもう「自分を表現するもの」ではなくなってしまうのではないでしょうか。

それは、機能的な価値とは別の何かを失った瞬間です。
このように、個人の美的感覚や文化的価値観に合わないものが押し付けられると人は心理的な違和感を覚えていきます。

同じように、企業がポリコレを過剰に反映したキャラクターやストーリーを展開することで、従来の顧客層が作品に共感出来なくなるという現象が起きます。
そして同時に企業が志向する、新しいポリシーというその見えない圧力が、クリエイターの自由な表現を制限し、結果的に作品の質を低下させるという事態も生み出すでしょう。

こうした背景が続けば、いずれ世界は「ポリコレ疲弊症候群」(※造語)のような現象が広がると考えられます。
それは、過度なポリコレ推進によって、消費者やクリエイターが心理的に疲弊し、多様性という概念そのものを避けるようになるという現象です。
その結果として、社会全体がポリコレ推進派と反ポリコレ派に二極化し、文化的対立がさらに激化するでしょう。

「多様な表現が統一された規範に吸収されれば文化の彩りが失われていく。」
フランスの社会学者ミッシェル・フーコーは「規律社会」という、権力が個人の行動や思考を規定し、それを管理することで、社会を統制する概念を提唱しました。
ポリコレは、ある意味でこの「規律」の一種になる可能性があり、人々の表現や創造性を特定の価値観に適合させようとする力として機能する可能性があります。

その統制が行き過ぎれば、フーコーが警告したように、私たちは自由な自己表現や創造性を奪われる可能性があります。
またそうなれば、個人の行動は単なる自由な選択の問題ではなくなり、社会的な規範に従わなければならないという圧力にさらされるでしょう。

ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンが提唱した『技術的複製可能性の時代』において、アウラの喪失という概念があります。
それは、個々の文化や芸術が複製され、均質化されることで、かつてのオリジナリティや独自性が失われていくと。
つまり私たちは、社会的規範によって「複製」される存在に過ぎなくなり、オリジナルな個性を失う危険にさらされているのだと。

「多様性と斉一性のどちらに天秤は傾くのだろうか。」
発端から辿って行けば、両者はほんの僅かな解釈の違いです。
『アサシンクリード シャドウズ』問題を追求していくと、やはり経済という概念こそが人の心を狂わせているのではないかという考えも浮かんできます。

いずれにせよ、文化的な対立が起きれば無規範化が進行していき、社会全体が倫理的な混乱に直面した末に、個人が自己完結型の生活を選ぶ傾向が強まるでしょう。
またその未来では、共通の価値観が失われ、個人と社会の間に深刻な隔たりが生じる可能性があります。
例えば、無規範化が進んだ都市では、倫理的な規範が曖昧になり、個人が社会との接触を避けて自己完結型の生活を選ぶ現象が加速するかもしれません。

「未来は、不確定だが自ら創り出していくべきなのだろうか、それとも絶対的な何者かから与えられるべきなのだろうか?」
そんなことを考えました。


結論

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コメント

  1. 星屑のかけら

    本日も楽しく拝見いたしました。
    私が人事畑勉強中だからこそですが、今回のポリコレの問題は人事の評価・報酬面にも大きく関連していると連想していました。

    ポリコレ→誰も不快にならないように、差別を無くすように鉛筆をなめること。と言い換えるとした際に、
    人事評価の落とし穴→どの社員にも不公平にならないように、評価や報酬を一律にすべく鉛筆をなめること。
    という人事関連の問題と同じ現象に陥るのかと感じました。

    実際に、
    『俺は成果を上げているんだから反映しろ』という声をもとに成果報酬の色を強めれば、それは、一握りのヒトに多く還元することになり、平等性に欠ける。
    『みんな仲良く平等にするべきだ』という声をもとに均等に(基本給に比例させて)報酬を配れば、それは、成果を上げずとも旨みを教授することになり、公平性に欠ける。
    という、評価(成果)と報酬のジレンマが、人事が向かい合わなければいけない問題の一つです。

    今回のポリコレの問題も、それと何が違うのでしょうか…?

    Wikiの改筆には驚きましたが、現代においてはそれすらもマーケティングなのかもしれませんね。
    生成AIによる情報収集はすべてネット情報からかと思います。情報の取捨選択、信頼の確かめがより必要になると感じました…

  2. 古澤 泰明

    ポリコレは多様性、DEIといったことを推進するという錦の御旗の元で現在の良識を変え、破壊し、推進者の意図する報告に世の中をコントロールしようとしているのでは?と感じています。今の流れで行き着くところは斉一性ではないでしょうか?

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