事例分析

【CASE14】身体活動レベルからみた考察

今回は、身体活動にまつわる話について新たな視点から考察していきます。


問題提起

世界保険機関(WHO)調査の結果、世界全体の成人25%が推奨される身体活動レベルに達していないことが判明しました。
世界人口が81億人と考えれば、およそ20億人が運動不足になっているということです。

また高所得国の成人の約37%が運動不足であるのに対し、低所得国では約16%でした。
そして高所得国の約32%の女性と23%の男性が身体活動不足とされています。
ちなみに肥満率に注目すると、高所得国代表のアメリカでは成人の約42.4%が肥満とされていますので、密接な関係性が想起出来ます。

つまり、高所得国は低所得国の約2倍となっている訳ですが、その差は都市化とライフスタイルの変化に起因していると考えられるでしょう。
時代を重ねるほど深刻化する運動不足を改善するため、WHOは2025年までに運動不足の人の割合を10%下げるとする目標を掲げています。

この変化は未来の私たちにどのような変化を与えようとしているのでしょうか。


背景考察

世界で起きている種々の話は我々日本人にとっても他人事ではありません。
国民のスポーツに対する関心や実施状況について、スポーツ庁が日本全国で実態調査を実施されています。

その結果によると、実は、日本人も約30%の成人が運動不足だと判明しています。
そして週に1回以上スポーツを実施している成人の割合は約55%で、コロナ明けから徐々に減少傾向にあることが分かりました。

また笹川スポーツ財団によれば、運動部活動への加入率は、2017年以降、中学校期・高校期ともに減少傾向にあるそうです。
中学校期男子の加入率は、2015年から2021年にかけて70%台で推移してきましたが、2023年は2021年から9.9ポイント減少し64.1%。
そして女子の加入率は2015年に58.4%でしたが、2021年と2023年は49.8%半数を切ったと。

深刻化する運動不足問題に対して、なぜ真剣に取り組まないといけないのか。

ご承知の通り、肥満、心血管疾患、糖尿病、特定のがんなどのリスクを増加させます。
例えば、身体活動不足の成人は、心血管疾患のリスクが約30%、糖尿病のリスクが約27%増加することが知られています。

もしあなたが病気になったらどうしますか?
多くの方が病院でお医者様に診てもらい、保険証があれば医療費控除を受けますよね。

窓口負担割合は、年齢に応じて6歳までは2割負担、69歳までは3割負担、70歳から74歳までは原則2割負担、75歳以上は原則1割負担です。
つまり、医療措置を受けるということは国の税金を使うということです。
すると、少子高齢化になれば国が負担する医療費はより膨れ上がることも視野に入ってくるでしょう。

「健康的な人間が増えれば増えるほど、国家財政もポジティブで明るい社会が見込めるようになる。」
そもそも身体が資本であるからには、健康的な生活を全うすべく努力する必要があるのだと。
様々な観点から健康長寿に向けたアクションが必要だと繰り返し言われていますが、なかなか事態は改善されません。

ようやく改善が見えたのは、コロナ禍でやれることが制限された時だけでした。

「運動したいけど運動する時間がない。でもYoutubeやゲームはやりたいのでやっています。」
余暇はあくまで遊戯に当てて、自発的に運動をするという選択肢は入らない。
つまり運動の優先順位は低く、軽視されているというのが現状です。

「運動不足で何が悪いんですか?だってそれも個人の責任なんでしょ?」
しかしながら、肥満になって生活習慣病になったとしても、それもそれで自己責任だから関係ないと。
個人主義でかつ自己責任論で語る人の中にはそのような私見を持つ方もいらっしゃいます。

「日常生活で身体を使わないことを求めるのは至極当然だと思う。」
また、効率化を目指してモビリティが進化すればするほど足を使う機会も減っていくという主張もあります。

例えば、エスカレーターやエレベーター、バイクや車、新幹線にリニアモーター、バスやタクシーなど。
これらは日常生活で不自由を感じられている方にとって、とても重要な技術です。

しかし一方で、スマートモビリティは甘い毒であり、運動不足を招く温床になっていると考えることが出来るのだと。
つまり、技術の進化が自分たちの身体活動を損ねる結果を招いているのだと。

だとすれば、「運動不足は決して自分だけの責任ではなく、技術の責任なのだ。」と考えることが出来ます。

しかし、この捉え方は本当に正当化されるのでしょうか。
あなたはどう思いますか?

では観点を変えて、もし運動を勉強に置き換えた場合は誰の責任になるのでしょうか。
つまり、勉強不足で受験に落ちて望むような学歴が得られなかったことは誰の責任なのだろうかと。

もっと言えば、大学進学率は52%ですが残りの48%の人間たちが、将来的に貧困問題に直面した場合はどう考えれば良いのでしょうか。
もちろん、大学に入ったから正義とか、偏差値主義とかそういうことが言いたいのではありません。

そう、横暴に結論を言えば、学歴格差や所得格差、その果てにある貧困問題ではその原因が「社会にある」という意見は必ず正当化されています。

例えば下記のような例はいずれもその最たるものと言えるでしょう。
①生まれた時から、両親に身体的、精神的、性的虐待を受け、ネグレクトで、十分な栄養も教育も与えられていない子ども
②致命的な重病になり、働くことができず、身寄りがなく、生活面でも経済面でも援助を受けられない患者
③先天的な障害で、生まれた時から、家族だけでは不可能な特別な介助や医療的ケアを必要とする障がい者
④危険運転の交通事故によって、半身不随になり、一生を寝たきりで過ごさなければならない人
⑤小中時代のひどいいじめによって、PTSDとなり、不登校になり、社会生活が送れない人
⑥大震災や自然災害で家や財産を失い、生活の基盤を失ってしまった人

「好き勝手やって蒔いた報いの種を踏んだ時でさえも、人は何かにすがろうとする。それは甘えすぎだろ。」
たとえ自由にやりたい放題にやって失敗した時でさえも、或いはやるべきことを怠って怠惰な生活をして貧困に陥った時でさえも。
その背景に注目せよと、実は環境がそうさせていたのだと、同情の余地があり助けるべきだという意見があります。

例えば、吾峠呼世晴『鬼滅の刃』には、鬼という人間を殺傷する悪いやつが人情に訴えかけるような美談を持っています。
要するに、鬼になってしまった壮絶な理由や悪の道に走ってしまう切ない理由など、一人ひとりの鬼物語が涙を誘ってくれます。
その背景に触れた(発見した)読者は、「それなら鬼になるのも仕方ない。」や「かわいそうだから仕方ないね。」という気持ちに感化されていきます。

それは、つまり、理由はどうあれ同情の余地が発見された場合、自責の念は解かれて他責が正当化されるということです。
もっと言えば、大変言い方が悪いのですが、自己責任論だと断罪しつつも自責の念を解かれる術があるという矛盾がそこにある。

皮肉であり、面白いものです。
発明されたもの(主義や思想)と発見されたもの(背景や理由)が重なった時、我々の認識は等価(ゼロ)になるのですから。
あとはその比重がどちらに傾くかだけ。

貧困問題における天秤は、明らかに発見されたもの(社会の責任)に比重が向くように設計されている。
そして、そこに反論すれば人権問題に発展するので必ず炎上するという。

「貧困の再生産など起きない。彼らは子どもさえ持てないからいずれいなくなるだろう。」
真偽は定かではありませんが、かつて自民党員が発言したと言われているこのセリフ。
炎上必至な反面、これさえも発明と発見を等価にするような天秤の調整が出来れば、社会を悪に仕立てることが出来てしまう。

例えば、子どもの貧困が親の貧困から来るのだとすれば、貧困な親が子どもを作るから不幸が始まるのだと。
不幸な子どもを産まないために何が出来るかという観点でかわいそうな子どもの物語が作られた時、私達の気持ちはどう揺れるのでしょうか。

「技術の加速は人間を弱体化していく。高所得国は楽をせず、みな低所得国のように原始に帰れば良い。」
こうしたことを考えて行くと、改めて技術進化に伴う運動不足や身体活動不足の責任は「技術にある」と言えるのでしょうか。
もし仮に言えないとするならば、なぜ社会の責任は認められて技術の責任にはならないのでしょうか。

身体活動にまつわる話からそんなことを考えさせられました。


結論

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