次世代継承学

【第37話】個人のワガママはどこまで許されますか?

「自由とは楽しいものではない。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもない。それは選択の責任である。権利ではなく義務である。真の自由は何かからの自由ではない。それでは特権にすぎない。」
オーストリアの経営学者ピーター・ドラッカーは、自由の重みについて考えさせられる言葉を残しています。

「自由は私たちの基本的な権利であり、それを制限することは許されない。」
自由は個人の基本的な権利であり、それを行使することは特権ではないという意見があります。
つまり、それは人間としての基本的な権利であり、制約されるべきではないというものです。

「自由を持つことは、それを正しく使用する責任も持つことを意味する。」
一方で、自由は選択の結果としての責任を伴うという意見があります。
つまり、自由はただの権利ではなく、それを持つことで他者に対する義務や責任が生じるものなのだと。

自由は権利としての特権なのか、それとも義務としての責任なのか。
どちらに比重が置かれるべきなのでしょうか。

あなたはどう捉えますか?

「生命、自由、および幸福の追求。」
歴史的に見て、自由の概念は常に議論の的になってきました。
例えば、アメリカの独立宣言では、自由は基本的な権利として位置づけられています。

しかし、権利としての自由を過度に主張すると、他者の権利や自由を侵害する可能性があります。

「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい。」
一方で、こちらは第35代アメリカ合衆国大統領ケネディ氏の就任演説の言葉です。
それは、自由や権利を享受するためには、それに伴う義務や責任があるという考えを示しています。

しかし、義務としての自由を強調しすぎると、個人の自由や権利が制約される可能性があります。

自由は個人の内面的な価値や尊厳を守るためのものであり、外部の制約や義務に縛られるものではないとも言えます。
とはいえ社会の中で生きる以上、他者との関係性や共同体の中での役割を考慮する必要があります。

では、ここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
それは、あなたのワガママはどこまで許されるのかということです。
もっと言えば、そのワガママは誰が許せば許したと言えるのでしょうか。

その境界線が曖昧なのが現代社会です。
あなたはどう考えますか?

「人は自分にのみ関わる行為については自由が保障されるべきであり、責任を負うのは他者に関わる行為のみである。」
イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、他者危害原則を唱えました。
平たく言えば、人に迷惑を掛けなければ何をしても良い。
誰かに迷惑を掛けるならば責任を取りなさいと。

「自由であるというのは、単に己の鎖を脱ぎ捨てるだけではなく、他人の自由を尊重し、向上させるような生き方をすることである。」
南アフリカの政治家ネルソン・マンデラは、自由はただの権利ではなく、それを持つことでの責任も伴うという考えを持っていました。

「自由で何をしても構わないが、すべては自己責任だ。貧困を抜け出せないのも自己責任だ。」
現代日本人の価値観には、自己責任論が浸透していると言われています。
人生が上手くいくいかないも全部本人が自由を行使した結果であると。

だから、失敗する者や堕落した者を助ける謂れはないのだと。

「得するために自由を使い、損しないために責任を逃れる。」
私たちは、誰もが社会集団の1人として生きています。

個々人がミクロで小狡い行動を重ねれば社会はどうなっていくのか。
想像するまでもなく苦しい展開が待っているでしょう。
でも、私たちはそれをやってしまっているのかもしれません。

ワガママはどこまで許されて、誰が許しているのでしょうか。
あなたは、どう考えますか?


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コメント

  1. 星屑のかけら

     心理学や経営学などを学ぶ中で、
    『無人島で樹が倒れたとする。その時に音は鳴ったか否か。』
    という命題を聞いたことがあります。
    教授してくださった方の答えとしては、『誰も感知していないのだから、音は鳴っていない。』というものでした。
    シュレディンガーの猫のように、誰かが感知/知らなければ箱の中の現象は起こっていないに等しく、誰かが感知/知ってから初めて現象は起こったことになり、その経過はブラックボックスなのだという考えだと捉えています。

     さて、当ブログも楽しく読ませていただきました。
    個人の自由について、私は他者危害原則に近い考えを持っています。
    極端に例えると、山奥の誰でも使える小屋で深夜に誰もいない中裸で過ごそうが、当人以外一切関知しないので問題にはならないため自由に行動してもよいが、当人に全く関係のない第三者がいる場合に裸でうろつくと大問題になる(なりかねない)ため、自由に行動するのは避けるべき。という考えです。
     シュレディンガーではないですが、経過がどうであれ結果として周知されなければ自由にやって良いのではないかと思います。

     SNSの台頭に伴い、誰でも大衆に対して情報を発信できるようになった現在では、
    上記の意味での他者危害原則に沿った”自由”は失われつつあるのかもしれません。

    • 青木コーチ

      いつも読んでくださり、ありがとうございます!

      「他者危害原則に沿った”自由”は失われつつある。」
      この言葉が印象に残りました。

      インターネット革命を越えて、もしも人工衛星による革命が来たとしたら。
      それは、位置と距離の共有が始まると考えられるでしょう。
      感知されないことが無くなる世界です。

      他者危害原理は、社会(地球)危害原理として蘇るのかもしれない。
      そんなことを考えさせられました。

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