次世代継承学

【第84話】誰かを想うとは、何かを思い出すということ。

「千と千尋の神隠しには何かありますよね。年を重ねて、いつ何度見ても、風化しない何かを感じます。つまり、不朽の名作とはこういうことだと思いました。」
地方公務員で働いている方とお話をした際に、千と千尋の神隠しについて考えさせられるきっかけを頂きました。

「千尋の世界と神々の世界の間には明確な境界が存在し、それは越えられない。」
人間と神々の世界は本質的に異なり、共存は不可能だという意見があります。
千尋の両親が食べ物を食べて豚に変えられたシーンは、人間と神々の世界の間の境界を越えることの危険性を示していると。

また、千尋が油屋で働くことを促されるシーンは、異世界での生存のためには、その世界のルールに従わなければならないという事実を示しているのだと。

「千尋と神々の交流は、異なる存在が共存する可能性を示唆している。」
人間と神々は異なる存在であるが、理解と尊重を基に共存が可能だという意見があります。
千尋と神々の交流、特に千尋がオクサレ様の世話をするシーンやカオナシを受け入れるシーンは、異なる存在が理解と尊重を基に共存する可能性を示していると。

また、これらの事例は、異なる世界の存在が互いに影響を与え合いながらも共存できることを示唆しているのだと。

「千尋が迷い込んだ神々の世界は、人間の理解を超えた力で構成されており、人間には理解しがたい純度の高い世界だった。」
純度の高いこの世界では、人間がもたらすものは「異質なもの」として捉えられていました。

純度とは、品質の高さと混じり気の無さを示す度合いです。
神々の世界は、不純なものを寄せ付けない、それが神々しさと捉えることが出来るでしょう。

つまり、そこには明確な境界線があるということです。

「この世界のものを食べないと、そなたは消えてしまう。」
千尋が神々の世界に迷い込んだとき、ハクは千尋の存在を留めるために丸薬を与えました。

「神々の世界は、人間のエゴやアイデンティティが認められない。」
そして千尋は、湯婆婆に「千」という名前を与えられることで、油屋の一員として働くことが出来ました。

これは千尋が神々の世界と同化することを意味しています。

ちなみに、千尋の両親も神々の世界の食べ物を口にしましたが、両親は豚に変えられてしまいます。
それは、人間の世界の欲望や汚れが、神々の世界には適合しないことを示しています。

神々の世界に同化した千尋は、次第に自分の本名を忘れていきます。
同化から離脱するための条件は、自分の本当の名前を思い出すことでした。

「欲求はいつも正面から来ない。」
正面玄関から招かれた千尋とは対照的に、カオナシは、千尋によって側面から招かれました。

すると油屋の中でカオナシは、油屋の住人たちの欲や嫉妬を吸収して、巨大化した結果、自分を見失い暴走してしまいました。

「名前を持たない者は、何者にでもなれるが、自分にはなれない。」
そして千尋に受け入れられたいという承認欲求を示します。
それは、名前を持たないカオナシが、千という存在に抱く強い憧れです。

もしかしたら偽りを魅せて、ディナーと従業員を食べたのも満たされない欲求ゆえなのかもしれません。

名前を持たず、ひたすら欲望を貪り、千の欲動も煽るカオナシ。
彼は「風評の象徴」なのかもしれません。

カオナシは、千尋に連れられて油屋を出るとき、元の姿に戻ります。
まるで小さくてまだ自我の無い赤ちゃんが、お母さんに窘めれて、平常心を取り戻したかのようです。

しかし、人と神々の世界が完全に隔絶されたものかと言うとまた別の視点もあります。

「千尋は共存が不可能と思われた神々の世界を繋ぐ架け橋となった。」
千の神々を尋ねる少女、だから千尋なのかなと。
千尋は油屋で働くことで、神々の世界のルールや文化を学び、成長します。
また、リンや湯婆婆たち、その世界の住人たちと友情や信頼を築きました。

これは、人間と神々の世界が、理解と尊重によって共存可能であることを示しています。

「ニギハヤミコハクヌシ。」
ハクは、魔法使いになりたいという希望のために、湯婆婆と契約を交わしましたが、カオナシ同様に暴走はしなくとも自分を見失っていました。
しかし、記憶を辿るきっかけを持つ千尋のおかげで、自分の正体や出自を取り戻しました。

「よきかな。」
また、オクサレ様は、人間が投棄したゴミを纏いながら油屋にやって来ます。
しかし、他の人は見た目で判断して避けていた中で、千尋はオクサレ様を恐れずに接し、世話をしました。

それは、つまり、千尋が浮世の富や栄誉にこだわらず、オクサレ様の内面に理解と尊重を示して助けたということです。

そしてオクサレ様は、油屋で浄化されたことで元の姿に戻り、感謝の印として千尋に苦団子を与えて去りました。

物語の当初、人の世界と神々の世界は隔絶された世界でした。
しかし、ハクの贈与によって物語が動き始めます。

千尋は、油屋で働くことによって、神々の世界に貢献します。
その過程で油屋の従業員や客から助けや教えを受けます。

そして、千尋からハクへの返礼によって、物語は終局を迎えます。

「誰かを想う気持ちとは、何かを思い出せるということ。」
ハクはおまじないとして、千尋に丸薬やおにぎりを授けています。
そのおまじないには、誰かを想う気持ちが込められていたのかもしれません。

つまり、それは、想う誰かがいなければ思い出すことが出来なくなっていくということです。
私たちは、近所の建物が更地になったり、変わっていた時、なぜか昔何があったのか思い出せないという現象を目の当たりにすることがあります。

それは、想う誰かがいないからなのでしょうね。

その現象を体現していたのが銭婆だと思います。
銭婆の魔女の契約印を返す代わりに、ハクの命を助けてもらう。
そのために、千尋は釜爺からもらった切符を片手に、海列車に乗り込み彼方へ向かいます。

「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで…」
そこで出会った銭婆は隔絶された地の住人でした。
もしかしたら、銭婆自身に、想える誰か(相手)がいなかったからこそ、その言葉が生まれたのかもしれません。

「魔法で作ったんじゃ何にもならないからね。お守り。みんなで紡いだ糸を編み込んであるからね。」
だから、銭婆はあえて魔法で髪留めを作りませんでした。
みんなの手で一つひとつ紡ぎ上げる必要がありました。

それが思い出すきっかけ、その象徴になるからです。

「おまえはここにいな。あたしの手助けをしておくれ。」
それは、カオナシという存在そのものが、誰かを想うために必要だったということでしょう。
そして、きっとカオナシも嬉しかったはず。
初めて自分を自分として承認してくれたのだから。

「海の彼方にはもう探さない 輝くものはいつもここに 私の中に見付けられたから。」
海の彼方で紡いだ髪留めは、私とあなたの心を繋ぎ留める象徴になったのかもしれない。
木村弓『いつも何度でも』の歌詞と映画は相互補完の関係にあると考えています。

すべてのものは、汚れなくいられません。
なぜなら存在には関係性が必要だからです。

近付けば見失い(見付けられない)、離れれば思い出せない(出されない)。
それは、神々の世界の住人でさえもそうでした。
だから油屋は関係性によってもたらされる穢れを祓うために必要だったのでしょう。

「八百万百の神様と生きる。」
日本には神道という、神々と人間の関係を重視する宗教があります。
神道では、神々は自然や社会のあらゆる事象や存在に宿ると考えられています。
そして、神々と人間の関係は、隔絶や共存ではなく、共生や和合という概念で表現されています。

神々は人間の生活に影響を与えますが、人間も神々に影響を与えます。
例えば、神々と人間は、神社や祭りなどの儀礼を通して、互いに敬意や感謝を示し、対話をしてきました。

一方、ヨーロッパではルネサンスという、人間と神の関係を再考する文化運動がありました。
ルネサンスでは、人間は神の創造物であるが、神に似せて作られたと考えられています。
そして、人間と神の関係は、隔絶や共存ではなく、模倣や啓蒙という概念で表現されています。

人間は神の意志に従うが、神の理性や美を追求することは怠らない。
つまり、ルネサンスにおける人間は、神との関係を通して、自己の尊厳や自由を発見してきたということです。

「千は、希望と欲望の境目を尋ねていたのではないか。」
千尋は、人と神の内を巡る旅の中で、目に見えない境界線を辿っていたのではないでしょうか。

だから、希望と欲望の調和を司る役割を果たせたのだと思います。

最後まで霊性が穢れなかったこと。
それが千尋の凄さだと感じました。


※千と千尋の神隠し とは ※The art of Spirited away―千と千尋の神隠し (ジブリTHE ARTシリーズ) ※千と千尋の神隠し 名台詞かるた

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コメント

  1. see

    小学生の時、強面の先生が「自分の名前だけは綺麗に書きなさい」と口酸っぱく言っていたことを思い出しました。
    理由は、「両親から初めて授けてもらったものだから」

    「誰かを想う気持ちとは、何かを思い出せるということ。」という一文が気に入っていますが、
    名前を思い出すということは、授けてくれた両親を思い出すということ。
    だから名前を思い出すことが元の世界に戻るミッションだったのかと想像しました。

    実は、千と千尋の神隠しは家族愛のストーリーであり、
    宮崎駿さんが「吾郎」に託した想いを投影されていた‥なんてことだったら胸熱ですね。

    • 青木コーチ

      コメントありがとうございます!

      「託した想いを投影されていた・・・」
      この言葉が印象に残りました!

      ドキュメンタリー番組で、宮崎駿さんと吾郎さんの関係性を見たことがあります。

      「この世界は才能がないと生き残れない。」
      駿さんは、吾郎さんに継いでほしいと思わないと。
      『ゲド戦記』を見た際にも、厳しい評価を下されていました。

      しかし現在、ジブリパークの制作指揮を振るう吾郎さんは、監督という地位を受け継ぐのではなく、ジブリという会社の資産を受け継いでいます。

      その姿は、父という個人を継ぐのではなく、まるでジブリという看板を背負っているように感じられます。

      「影を追ってはいけないよ。受け継ぐものは名誉や地位ではない。自分だけの、自分にしか出来ないことを探してほしい。」
      そんなメッセージが込められた映画なのかもしれないですね。
      もしそうだとしたら、御子息は立派な道を選ばれたのだなと感慨深い気持ちになりました。

      改めて、千と千尋の神隠しは解釈が多彩に出来る素晴らしい作品だと思わされました。

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