「日本は少子高齢化に伴い空き家が増えて、地域社会だけで解決出来るものではなくなっています。その一方で、空き家が外国人投資家にとって魅力的な投資物件となっているらしいですよ。」
地方で空き家ビジネスをされている経営者とお話をした際に、投資と文化の差について考えさせられる言葉を頂きました。
「空き家を活用してもらえれば地域経済が活性化して、地域住民にも良い波及効果があるのではないか。」
あくまで投資対象として空き家を購入していたとしても、地域が盛り上がるのならそれで良いという意見があります。
投資家は、日本の四季や自然を楽しむだけでなく、安定した収入源としてもこの市場に参入したいと考える。
すでに空き家を購入し、リノベーションを行い、民泊などの形で収益化することに成功した人もいます。
「外国人は儲けるために空き家を買って、日本の伝統的な文化や地域の歴史を踏みにじるのではないだろうか。」
一方、日本の家屋が持つ歴史的、文化的価値を尊重し、それを守るべきだという意見があります。
地域住民や文化保護を訴える人々の想い。
それは、外国人による購入が日本の伝統家屋を単なる収益物件に変えてしまうという懸念です。
資産家による投資を広く受け入れるべきか、それとも文化保存を優先して緩やかに朽ちていくのか。
あなたはどう思いますか?
「空き家が多くなると、街の活気がなくなるほか、放置された空き家が地域の景観や安全面に悪影響を及ぼす。」
空き家は、住まいとしての機能を失うだけでなく、景観や安全性、防災などの面でも問題を引き起こしていきます。
しかし一方で、空き家は日本の伝統的な建築や文化を反映する貴重な資源とも言えるでしょう。
空き家問題の原因は大きく2つあります。
一つは、高齢化社会が進む日本全体の問題で、団塊世代の相続が進み、空き家が急速に増加すること。
もう一つは、空き家所有者自身が空き家の管理や活用について問題を抱えていることです。
「空き家を再生し、活用することで、地域の魅力や活力を高めたい。」
そんなことを理想としながらも、誰がどう活用すべきかについては答えが出ておりません。
例えば、岐阜県白川郷の文化資産である合掌造りの家が外国人に買われているという話がありました。
また、京都市では、外国人による空き家の購入が広がっています。
「地域の歴史や文化が失われるのではないか?」
住民の生活や風習に配慮しない民泊の増加。
地域のコミュニティを乱すことを危惧する意見が挙がっています。
ではここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
「金は歴史より重い・・・のでしょうか。」
あなたはどう思いますか?
外国人投資家は、空き家を経済的な価値のある資産として捉え、自由な市場の原理に基づいて取引を行います。
それは、正しい手続きと公正な取引に基づいていれば、違法でも何でもありません。
購入した土地や物件についても、法律や約款に抵触しなければ、利用方法は所有者に委ねられます。
「不届き者め。伝統や歴史、倫理や道徳規範を無視するな。郷に入っては郷に従うべきだ。」
しかしながら、地域社会は、空き家を文化的な価値のある遺産として捉え、伝統や習慣を大切にすることを求めています。
もちろん、それらは自分の所有物ではありませんが、まるで自分の物かのように口を挟んできます。
これは、ただのワガママなのでしょうか?
「どのようにして外国人投資家と地域社会が協力し、共に利益を享受しながらも文化的価値を守り続けることができるのか?」
外国人投資家と地域社会が協力し、空き家を活用しながらも文化的価値を維持する方法を模索することが理想です。
例えば、外国人投資家は、空き家の購入やリノベーションに際して、地域の歴史や文化に敬意を払うこと。
そして住民との対話や交流を重視すること。
また地域社会は、外国人投資家の参入を拒絶するのではなく、受け入れること。
或いは、空き家の再生や活用に関するルールやガイドラインを明確にし、外国人投資家に事前周知をすること。
そして、政府や行政は、外国人投資家と地域社会の間の橋渡しとなり、空き家の再生や活用に関する支援や調整を行うこと。
理想を体現しようと思えば、各関係者がお互いにやるべきことをやる必要があります。
そのためには、それぞれの関係性を編み直し、その記憶を維持継承出来る存在が必要になるでしょう。
過去にも、経済発展と文化的価値の保護が対立した例は数多くあります。
例えば、世界遺産の地域では、観光客を惹きつけるための開発と、その地域固有の文化や自然を守るための保護が常に議論されてきました。
「日本の侘び寂びの心得や文化資産について、なぜか日本人よりも外国人の方がよく理解している。」
外国人旅行者と交流した日本人は、時折驚かされています。
これは非常に面白い現象であると共に、過去にもそのような現象はありました。
小泉八雲『日本の面影』
例えば、明治時代に日本の伝統的な建築や文化が西洋化の波に押されて失われる危機に瀕した時。
その時、日本の伝統を尊重し、保存し、紹介したのは、外国人の学者や美術家でした。
ルース・ベネディクト『菊と刀』
戦後に、日本の伝統的な建築や文化が高度経済成長の波に押されて失われる危機に瀕した時。
その時、日本の伝統を再発見し、再評価し、再生したのは、外国人の観光客や研究者でした。
「郷に入っては郷に従えというけれども、郷のことを知らない郷土人。」
そんな現象が今、起きているのだと考えさせられます。
あなたは、ご自身の住む街の歴史を語れますか?
※世界の空き家対策: 公民連携による不動産活用とエリア再生 ※小泉八雲についてより深く知りたい ※ルース・ベネディクトについてより深く知りたい
非常に興味深い内容で今後の特に文化的歴史のしっかりとした国においては重要な問題だと思います。
しかし、私の考えるところでは「金と歴史」という物に関しては
その二つそれぞれに優劣をつけるものではなく、表裏一体のものであるとも考えております。
というのも、文化・歴史は重要ではありますが、それを継続して残していくためには
「お金」というものは切り離すことができないものだからです。
民間の資本が動いて、保全するにしても行政が動いて保全するにしても
現代では基本的にお金は発生します。
逆に言うとこういった文化的財産は時の権力者にしろ誰かがお金を費やすなどして
現代まで残っているとも言えます。
また、そのお金があった事で生まれた歴史も存在するのではないでしょうか。
有名なところで行くと、日本の京都に残っている様々な寺社仏閣や
受け継がれる華の文化などはまさにお金によって生まれたと言えると考えます。
その為双方の関係値はどちらも対等とみなす、のが私の考えです。
強いてそこに切り込んで考えると、「お金と歴史」というところでどちらが重いか、というよりも
この「お金」というものに圧倒的な地位を築かせた“貨幣制度”というものに着目したい。
大昔人間の営みの中では、物々交換を行っていたが貨幣制度とともに
大きく動きが変わりました。
その中で、人よりもお金を持っている事に価値が生まれたために
今日に続く資本主義も生まれほぼすべての国がこの資本主義の元生活を送っています。
この貨幣制度の元、大きくお金を稼いだ人物が今日まで続く文化的財産を築くこともあれば
その元に戦争といった争いなどで破壊される事、文化の消滅もありました。
しかし、どちらも貨幣制度によって生まれた人間の営みの中の一部なので
優劣はつかないのかもしれません。
そういう意味では、「貨幣制度と歴史」のどちらが重いかを考えると
まず貨幣制度から始まっているので、お金=貨幣制度と考えるとお金の方が大事なのかもしれません。
しかし、貨幣制度が存在しなかった頃からの文化的財産も残っているので
その点はもちろん考慮する必要がありますが、人間の歴史で考えると貨幣制度によってさまざまな事が可能になったので
やはり貨幣制度のもたらしたものは殊更に大きいと言えるのではないでしょうか。
そのうえで「歴史」の重要性を考えると、記事内にもあるように
「郷に入っては郷に従え」という言葉がある様に、その国文化を尊重する事は非常に大事な事なので
貨幣制度というものではなく、各地の風土や文化形成など日本に限らずお互いが尊重する事で
重要な文化的財産は更に受け継がれていくのではないでしょうか。
その事においては「お金と歴史」のどちらが重い、ではなく
「お金と歴史」どちらも重い、になるのではないかと考えます。
その中で淘汰されていくものもあれば、悠久の時を経て継承されていく歴史もあり
ただ、それはどちらも“貨幣制度”という世界の中心が人間の営みにもたらす「結果」でしかないのかもしれません。
コメントありがとうございます!
「戦争といった争いなどで破壊される事、文化の消滅もありました。」
この言葉が印象に残りました!
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」
知里幸恵『アイヌ神謡集』はアイヌ文化を現代に残す偉大な書物です。
時の為政者が歴史を編纂して、マジョリティに信仰された時に歴史は歴史になる。
そこには紛れもなくお金の力が働いている事が想像出来ます。
そう考えると、マイノリティに信仰された歴史は必ずしもお金で保存された文化では無いような気がして来ます。
守り人や守護神という言葉があります。
何かを守り、残し、伝えるための存在です。
お金は文化を作り、残し、伝えるための最有力手段です。
しかし、それを実行するための判断は、人間にしかできないことかもしれませんね。
つまり、人間の介在価値というのは、判断を決定するための最も大きな要因なのかもしれないです。
すべては、誰かが判断を下して、ここに現存している訳ですから。
そんなことを考えさせられました!