「こんなものを描きたいというエネルギーこそが、最高のスパイスで隠し味。」
ジブリパークの「食べるを描く。」という企画展示室に宮崎吾朗さんの言葉があり、展示物から色彩について考えさせられました。
「色彩設計は作品の仕上がりすべてに影響し、作品全体の雰囲気を変えてしまうほど重要な仕事です。」
色彩は、視聴者の感性や感動に直接訴えかける力を持つという意見があります。
色彩設計が感情的なトーンを設定し、キャラクターの心理状態を視覚的に表現すると。
そして、色彩が作品の世界観や雰囲気を形成し、登場人物や物語の展開に応じて感情や時間の経過を表現する重要な手段になるのだと。
「最終的には物語とキャラクターが視聴者を引き込む。色彩設計は重要だけど、物語がなければ意味を成さない。」
一方で、色彩は作品の表現方法の一つに過ぎず、物語の強さが視聴者の感情に影響を与える主要因だという意見があります。
色彩は、物語の内容やキャラクターの発展に従属するものであり、それ自体が作品の価値を決定するものではないと。
そして、物語の内容やキャラクターの発展が最も重要であり、色彩は二次的な要素に過ぎないのだと。
作品を決定づけるのは、色彩かそれとも物語か。
主観的な解釈に大きく依存する内容ではありますが、あなたはどう思いますか?
「映画の品格を決めるのは背景美術だ。」
アニメーション監督の宮崎駿さんは、色彩設計の保田道世さんを戦友と評しています。
デジタル化が進んだ今も、ジブリの背景美術は絵の具を使って画用紙に描かれているそうです。
「日本の色彩感覚を大切にしたい」
宮崎駿『千と千尋の神隠し』では、「油屋」の色彩を日本の伝統的な色彩である「和色」に基づいて決めたそうです。
この色彩設計によって、油屋は日本の神話や民俗に根ざした不思議な世界として描かれました。
「千尋が初めて油屋に入るシーンでは、暗くて重苦しい色彩が使われているが、千尋が油屋の仲間たちと打ち解けていくにつれて、色彩が明るくなっていく。」
作品の中で、千尋の心境の変化や、油屋の昼夜の対比なども、色彩によって表現されています。
そして、油屋の昼間は、赤や黄色などの暖色系の色彩が多く使われているが、夜になると、青や紫などの寒色系の色彩が多く使われる。
これらの色彩の変化によって、作品の空気感や感情の移り変わりが私たちに視覚的に伝えられていました。
「東京は現代的で洗練された色彩、糸守町は古風で温かみのある色彩。」
新海誠『君の名は。』では、作品の舞台である東京と糸守町の色彩が対照的に設定されています。
この色彩設計によって、作品のテーマである「都市と田舎のギャップ」や「男女の入れ替わり」が強調されています。
また、登場人物の感情や物語の展開に応じて、色彩のトーンや彩度が変化しています。
例えば、瀧と三葉が初めて入れ替わるシーンでは、色彩が鮮やかになり、瀧と三葉がお互いに惹かれていくシーンでは、色彩が柔らかくなる。
そして、瀧が三葋の名前を忘れてしまうシーンでは、色彩が淡くなり、瀧と三葋が再会するシーンでは、色彩が濃くなる。
これらの色彩変化の妙が、作品の感動や緊張感が高めています。
「色彩の受け取り方は、視聴者の文化や感性によって異なる。」
しかし、色彩には文化的な意味や感情的な影響があることから、視聴者の個人的な好みや背景に左右されるものです。
例えば、日本では白色は清潔や純真などのイメージがあるが、中国では白色は死や悲しみなどのイメージがあります。
つまり、必ずしも色彩が作品の価値を高めるとは限らないということです。
「その日人類は思い出した。やつらに支配されていた恐怖を。鳥かごの中に囚われていた屈辱を。」
荒木哲郎『進撃の巨人』では、テーマが残酷な世界の美しさを描くものであるため、巨人に脅かされる人類の絶望感や恐怖感を表現するために、彩度が抑えられています。
そのためか、作品の舞台である人類の最後の砦であるウォール・マリアの色彩が暗くて冷たい色彩に設定されています。
本作は、色彩により世界観や雰囲気が表現されていますが、色彩よりも、物語の内容やキャラクターの魅力がヒットに繋がっているように思います。
人類と巨人の壮絶な戦いや、巨人の正体や起源に関する謎や陰謀を描いたもので、視聴者の興味や熱狂を引き付けたのではないかと。
例えば、主人公のエレンやミカサ、アルミンなどの人類の反撃部隊のメンバーが、巨人との戦闘や仲間の死に直面する場面。
そもそも始めの数話の訓練過程で困難を乗り越えて成長していく様子が視聴者の感情や共感を呼び起こすきっかけを生み出しています。
つまり、作品の価値の核心であり、色彩はそれらを補完する役割にとどまったと言えるだろう。
「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ。」
松島晃『鬼滅の刃』では、原作の絵柄に比べて、色彩の濃淡がはっきりしています。
それは、人と鬼の境界線を明確にするためだと考えています。
本作では、不滅の意味が鬼と人で異なります。
鬼の不滅は「肉体的に死なないこと」ですが、人の不滅は「精神的に繋がること」です。
根源が滅べば全ての鬼が滅びますが、人は想いを繋げていく限り不滅の存在だと。
鬼に家族を殺された炭治郎が、鬼になった妹を人間に戻す。
連載当初から、鋼の錬金術師やジョジョの奇妙な冒険のオマージュと言われながらも徹底した英雄の旅理論によって視聴者を引き付けました。
鬼を狩る者と人を狩る鬼、それぞれの過去や思いを背負いながら、成長していく様子が作品の価値の核心であり、色彩はそれらを補完する役割でした。
ではここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
「色彩設計は将来的に不要になっていくのでしょうか。」
あなたはどう思いますか?
「キャラクターの魅力や物語の強さが消費者の心に影響を与える主要因となっている。」
アニメを作り方は製作委員会方式が中心であり、売れるためにキャラクターマーケティングが重要視されています。
物語の内容やキャラクターの魅力が視聴者の感情に大きな影響を与えてファンにしていくのだと。
アニメーターが大切にされない背景はそこにあります。
つまり、色彩設計を始めとする縁の下の力持ちたちがもたらす効果とその重要性が認知されていないということです。
「時代は実写の様に見えるCGを求めている。」
2D(二次元。平面上で表現する映像。)、3D(三次元。立体として表現する映像。)、3DCG(CGのうち三次元で作られているもの。)
アニメーションと現実が限りなく近付き始めています。
近年では、実写と3DCGを合成する、3DCGIアニメーション映画が公開されています。
例えば、映画『海獣の子供』は6年前から企画が準備されています。
そして制作過程では、色彩設計が初期段階からテストカットを作成して、映像の美術設定や背景、彩色において重要な役割を果たしました。
「アニメーションの視覚的印象と感情的な深みを与える核心的な要素を担う職人たちの貢献を無視したらアニメはもう作れない。そんな領域に来ている。」
素晴らしい作品である一方、マネーゲームでどうにかなる領域ではありません。
「ルネサンス期と同じようなことが繰り返されようとしている。」
かつての芸術家たちは、形(技術や美学)と内容(テーマやメッセージ)のバランスを模索し、新しい芸術の形式を生み出しました。
形と内容、外見と本質の関係性を探求すること。
アニメを日本文化として、芸術作品に昇華していくのであれば、色彩と内容のバランスは、形而上学的な問題に関連していきます。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』とミケランジェロの『ダヴィデ像』があります。
2つの作品は色彩や構図などの技法的な面で優れた作品です。
しかしそれ以上に、モナ・リザは微笑みに込められた人間の心理や感情を表現したことが、作品の価値の源泉です。
そして、ダヴィデ像は肉体や表情に込められた人間の力強さや勇気を表現したことが、作品の価値の源泉です。
ルネサンス期の芸術家たちは、色彩や構図などの技法を駆使して、人間の美しさや自然の真実を表現しようとしました。
そして、作品に込められた人間の尊厳や自由な精神を視聴者が汲み取ることで、今に継承されてきました。
あなたは色彩設計者のような見えない役割をどう評価していきますか?
※スタジオジブリ全作品集 ※宮崎駿とジブリ美術館 ※アニメーションの色職人
オタク界には概念推し活という表現があり、それは推しキャラの色や要素をコーデや持ち物に反映させることを指すようです。
抽象的な表現が想像の余白を作り、新たなオリジナルを生み出す要素になっていると考えると、受け継がれ続けるのはキャラそのものというより色彩表現だったりするんですかね**
コメントありがとうございます!
「受け継がれ続けるのはキャラそのものというより色彩表現。」
この言葉が印象に残りました。
アニメを見ると誰もが思います。
なぜこのキャラは着替えをしないのだろうかと。
そして、瞳の色と髪型と衣服が違うだけで原型は同じだなと。
「白人が全員似たような顔に見える。」
見慣れていない人種について、私たちは大雑把な見方、分類分けをしてしまいます。
その点、色彩表現は全世界共通で見分ける基準なのかなと思いました。
概念推し活という言葉を初めて聞きました。
確かに、白が200色あるのならば、一人ひとりには特有の色彩があると考えられます。
そして、禁じられた色彩表現も存在するのだなと。
そんなことを考えさせられました。
こんにちは。いつも楽しく拝読しています。
私が特に印象に残っている映画の1つに、『ちはやふる』があります。
ちはやふるは、競技かるたを題材とした少女漫画で、それを広瀬すずを主役に映画化されたものです。
ある知人が制作に関わっていると聞き見に行った作品でしたが、3部作(上の句、下の句、結び)を一言でまとめるならば圧巻され、惹きこまれた作品でした。
何が私にそうさせたのかを今でも鮮明に覚えていますが、1部作目となる上の句の導入部のアニメーションでした。
学の浅い私では言葉で上手く表せられないため、見ていただくのが一番早いです。
あの最初の数十秒のアニメーションがあったからこそ、作品に視聴者は惹きこまれ、ちはやふるの世界に没頭することになったのだと感じています。
現実にはなかなかにない鮮やかな色、でも同時に、しかりと古今和歌集を想わせる。
あれ以上のアニメーションに出逢ったことがありません。
アニメーションを構成するのは絵、色、動き、音と様々ありますが、
今回のブログを拝読し、ちはやふるのアニメーションを急に思い出させられました。
コメントありがとうございます!
「現実にはなかなかにない鮮やかな色、でも同時に、しかりと古今和歌集を想わせる。」
この言葉が印象に残りました。
この目で見たことのない景色なのに、その景色を想像する。
それは、人間が授かったとてつもない特殊能力だなと思わされました。
「私は、想像力の源泉、及び、センスというものは、色に込められていると思います。」
弊社のスタッフが仰っていました。
思わず、そこには理解を越えた納得感がありました。
イメージとは何か、人は何から何を連想しているのか。
宮崎駿さんは、ジブリの温もりは色にあると。
そして、宮崎さんは絵に質感を宿らせるために、タンスの中に何が入っているのかまで詳細に描くそうです。
決して、映画の中でタンスを空けるシーンは描かれないのにです。
実は、想像性にはもっと深い意味があるのではないかと。
そんなことを考えさせられました。