「やれば出来ると言う教師ほど生徒を見ていない。日本の教育はメリトクラシーを覆い隠している。」
こちらは、ある高校教師から頂いた言葉です。
能力に基づいて社会的な評価が下されていくことについて考えさせられました。
「何事もやれば出来るし、やらなければ出来ない。ただそれだけだよ。」
個人の意志と努力によって、困難な状況を乗り越え、目標を達成できるという意見があります。
つまり、成功の鍵は個人の努力と行動にあるのだと。
「やればできるという言葉は、個人の尊厳を傷付けている。」
一方で、この言葉は不平等と不公平を無視したものだと批判する意見もあります。
つまり、社会的・構造的な不平等や障壁が存在しており、個人の努力だけでは解決できない問題が存在するのだと。
「自分も出来たのだからあなたも出来るはずだ!」
ビジネス系の講演会やセミナーでも目撃します。
成功した起業家や経営者が、自らの成功体験を基に、やればできると説く姿を。
自分の成功ノウハウは万人に通ずるものだから、意識と行動を変えればこの瞬間から未来は変わるのだと。
「そもそも、なぜやり続けることが出来ないのだろうか。」
構造的な不平等は、個人の努力だけでは克服出来ません。
例えば、教育の機会不平等、それは根深い問題です。
生まれ育った環境や家庭の経済状況によって、素質の開花状況は大きく異なります。
さらに言えば、グリット(やり抜く力)は遺伝によるものだという意見さえもあります。
現代はアテンションエコノミー(関心経済)とも言われています。
それは、目立つ人がより目立てる社会であり、個人の成功を高く評価し、成功者を称賛します。
しかしその一方で、失敗者や落伍者は、見過ごされるかマウンティングの標的として尊厳を奪われています。
個人の努力と気概が足りないという意見は正論かもしれません。
しかし、出来ないことには理由があることもまた正論です。
では、問題の原因は何にあるのでしょうか。
あなたはどう考えますか?
「寄り添い引き出し合える隣人がいなくなってしまったこと。」
私は、それが原因だと考えています。
個人の努力を尊重し、努力することの価値を認めること。
社会全体として構造的な不平等や障壁を取り除く取り組みを推進すること。
つまり、教育の機会均等や、社会的なサポートの強化を通じて、全ての人が自己実現できる社会を目指すべきである。
「仰る通りで賛成したいけど、現実はそんな簡単じゃない。」
当然そのような提案を繰り出すことも可能です。
しかしそれは、海外の素晴らしい事例を引き合いに出して日本社会の不出来を責める事と似ています。
すなわち、理屈は合うけども文化風土と資金繰りを度外視した提案だということです。
個人の努力は確かに重要であり、自己成長や成功のためには欠かせない要素です。
しかし、社会構造の中に存在する不平等や障壁も無視出来ない。
個人の価値観や世界観の違いから来るものに共通解を求めることほど難しいことはありません。
「人間の行動はバグだらけ。」
行動経済学において人間はそう評されています。
1つの理と解によって画一的に括るという行為は、概ね当たりますが完全ではありません。
では、なぜ”画一的な理と解”を無条件に盲目に正解だと感じる人が存在するのでしょうか。
もしかしたら私たちは、人間を人間として見なくなってしまったかもしれない。
世界と、自然と、ものと、人と、向き合う力を失い始めたのかもしれない。
つまり、それは、目に映る世界を記号で判別するようになっている可能性があるということです。
あなたの見ている世界の色彩はちゃんと鮮やかですか?
※メリトクラシー とは ※アテンションエコノミー とは ※グリット とは
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