「現実の都市計画が功利論や義務論に従ってなされた結果、場所が生き物としての全体性を失い、人は尊厳を奪われた。」
社会学者の宮台真司さんは、都市と人間の関係について考えさせられる言葉を残されています。
都市計画は人の尊厳や場所の全体性を重視すべきであり、功利論や義務論だけに従うべきではない。
「都市計画は効率と機能性を最優先すべき。それが多くの人々の生活を向上させる。」
都市空間や資源を効率的かつ合理的、或いは公正かつ倫理的に配分することが重要だという意見があります。
それは、社会全体の幸福の最大化を目指す功利論と住民の権利と尊厳を守ろうとする義務論によって生まれた意見です。
功利論と義務論の両者に通ずるのは人間中心的な都市設計にあります。
「都市はただの建物や道路の集まりではない。文化や歴史、人々の絆が詰まっている。それを犠牲にしてはいけない。」
一方で、都市計画は自然的価値と文化的価値を重視すべきだという意見があります。
それは、場所の全体性が失われると、都市そのものの価値も失われていくという意見です。
つまり、人を主体とするのではなく、環境子が織り成す1つの生き物としての街を定義する都市設計を目指したものです。
都市とは何か、都市は何のために存在しているのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
「世界の人工物はすべて人用に作られている。」
近代の都市化は国の経済発展を象徴するものであり、経済的な利益を追求する都市計画が中心でした。
そのおかげで、人間は高い生活水準の営みを享受することが出来ました。
しかし経済的な利益や効率性を追求した結果、高層ビルと高速道路が両立する景観が量産されることになりました。
「この学校は、好きですか。わたしはとってもとっても好きです。でも、なにもかも…変わらずにはいられないです。楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。…ぜんぶ、変わらずにはいられないです。それでも、この場所が好きでいられますか。」
社会有機体説のように、街を生きているものとして見立てた時に、変わる世界には淋しさが募ります。
もう取り戻せない何かを失ったような気持ちは、経済的な利益では埋め合わせのできないものです。
しかし文化的・歴史的価値を守る取り組みは、必ずしも地域経済と利便性の向上に繋がるものではありません。
都市計画の目的は何か。
それは単に経済的な利益を追求することなのでしょうか。
それとも都市に宿る魂や文化を守ることなのでしょうか。
過度な経済的な追求は、都市の魂を失わせる可能性があります。
逆に文化的価値だけを追求すると、効率性が失われる可能性があります。
都市計画は誰の何のために必要なのでしょうか。
あなたは、どう考えますか?
※宮台真司 とは ※都市計画についてより深く知りたい ※CLANNAD とは
大変面白い内容ですね。
利便性のみを追求すれば、文化的価値や自然的価値を失ってしまい、
かたや文化的価値や自然的価値を優先すると、利便性や地域経済の向上の機会を失いかねない。
なんだか”二兎を追うものは一兎をも得ず”
という言葉が浮かびます。
わたしはここのトピックで重要になると感じるのは
”人はどこまで利益や利便性をもとめるのか”ということです。
というのも都市計画における利便性と地域経済を優先すること、
文化的価値や自然的価値を優先すること
それぞれのメリット・デメリットを考えた時に
文化的に貴重なものが失われてしまうことは、
未来の視点で言うとそんなに損失ではない気がしています。
たとえば、歴史的に素晴らしい建物が残っていた時、
現時点では何百年前の遺産などの発見は過去を知る貴重な材料になりますが、
それは何百年たった未来からすると現時点での建物や残している資料などからも発見できそうだなとも思います。
つまり今の人類が過去の文化を壊して、“高い水準の利便性のみを求めた都市と文化”の痕跡は、遠い未来からみると貴重な歴史的な遺産になりえるわけです。
なので、文化的価値として保存しておくメリットというのは
そこまでない気がするのです。
その点現時点で利益や利便性の優位性に関しては、そもそも利益、利便性の上限がわかりません。
もし文化的価値のように遠い未来から見た時に、利便性や利益を優先した現在はどのように影響するんでしょうか。
人類が今現段階で満足できたのであっても、
未来から見た時にこの今のせいでもっと発展できていたものが
できなかった!と憤るのでしょうか?
それとも今とめどなく
利便性や利益を求めた先に
未来が”なぜそこまで求めたんだ”と憤る
問題がこれからおこったりするのでしょうか?
そもそも今の便利よりもっと
便利なことを人類は求めているのでしょうか?
いろんな可能性が思考を巡りました。
コメントありがとうございます!
「未来から見た時にこの今のせいでもっと発展できていたものができなかった!」
この言葉が印象に残りました。
まさにそれが、古代でもありました。
アレクサンドリア図書館です。
紀元前300年頃、エジプトのアレクサンドリアに設立された図書館で、その目的は世界中の文献を集めることでした。
「古代最大で最高の図書館」「最古の学術の殿堂」とも言われ、数多くの思想家や作家たちの著作が納められていました。
領地拡大の侵略戦争によって、敵国の文化を破壊することは、その当時の人々にとっては切実なものです。
しかし、私たちからすれば遺産を失ったと肩を落とすような歴史です。
「未来が”なぜそこまで求めたんだ”と憤る問題がこれから起こったりするのでしょうか?」
それで言うと、キリスト教の世界的な布教は世界を大きく揺るがしました。
有名所で言えば、地球が回っているのか、それとも地球以外が回っているのか。
キリスト教の統一規範が科学と衝突した結果、文献には残っていないマイノリティ文化を消失させたことは容易に想像出来ます。
今が正しいと思えればそれで良いのでしょうか。
未来をどこまで想えば良いのでしょうか。
そんなことを考えさせられました。