次世代継承学

【第72話】あなたは、誰かに助けられたことがありますか?

「生徒に豚を飼育させて生命と向き合わせる授業がありますが、命の重さを教えるためにここまでやる必要あるのでしょうか。」
小学校で教員をされている方とお話をしていた際に、命を伝える授業について考えさせられる言葉を頂きました。

「生徒に実際の生命との接触を通じて、命の大切さを教えることは、理論だけでは得られない深い理解をもたらす。」
命を学ぶ教育の一環として尊重するべきだという意見があります。
動物の世話を通じて責任感や共感を学ぶことが出来ると。
そして、生命の尊重について深く考える機会が得られるのだと。

「生徒に実際の生命の扱いを強いることは、精神的な負担を大きくし、教育の目的を逸脱する可能性がある。」
一方で、生徒の心の健康を守ることも重要だという意見があります。
名前を付けて、みんなで育てて、屠殺するという直接的な方法が生徒に過度の精神的負担を与えると。
食肉としての豚の現実を直視し、食べ物としての命の価値を理解することを求めるのは酷なのではないかと。

「なぜ、豚はこの世に生を受けたのだろうか?」
飼育と屠殺。
教育における理想と現実の間のギャップにあります。

農業教育や動物介在教育。
それらは、生徒に実際の生命との接触を通じて命の大切さを教える授業として実施されています。

「死にゆく友達、残される自分。」
豚に感情的な絆を持ちながらも、食肉としての現実に直面する。
生徒に実際の生命の扱いを強いることには潜在的な問題があります。

「なぜ僕は、今も生きているのだろうか。」
例えば、動物を殺すプロセスに直面させられた生徒は、トラウマや罪の意識を感じる可能性があります。
また、生徒の中には動物との接触に対して恐怖や不快感を抱く者もいるでしょう。

「生命の扱いを通じて、生徒たちは命の尊さや大切さを学ぶどころか、命に対する無感覚や残酷さを増すことがある。」
例えば、アメリカのある高校では、生物学の授業で、生徒たちに鶏の解剖をさせるという教育がありました。
しかしその過程で、生徒たちは鶏に対して暴力的な行為をしたり、鶏の死体を不適切に扱ったりするという事態が起きています。

また、日本のある小学校では、生活科の授業で、生徒たちに金魚の飼育をさせるという教育がありました。
しかしその過程で、生徒たちは金魚に対して虐待的な行為をしたり、金魚の死に対して無関心だったりするという事態が起きています。

命の重さと責任を学ばせることは簡単ではないということを考えさせられます。

「理論だけでは得られない深い理解をもたらす。」
生徒たちが動物や植物と触れ合い、その成長や死を見守ること。
生きとし生けるものの営みや循環は直視することで、心で学ぶこともまた確かです。

つまり、生命に対する知識や理解だけではなく、生命に対する感動や共感も必要だということです。
例えば、上越市立頸城中学校では、生後4ヶ月頃の赤ちゃんやその母親と交流することで、命のぬくもりを肌で感じるという教育を行っています。

生命の扱いを通じて生徒たちに与える影響を過度に否定すること。
それは、生徒たちの成長や学びの機会を奪うことでもあります。

生命との接触は、生徒たちにとって楽しい体験だけではなく、辛い体験やトラウマになることもあります。
だからこそ、その時、生徒たちに適切な指導や助言をする大人が側にいることが重要だと考えます。

シャーデンフロイデ。
それは、「他人の不幸は蜜の味」や「加害の喜び」といった負の感情を表す言葉です。
他人の不幸や失敗を見て喜ぶ気持ち、ざまを見ろ、いい気味だと思うことを意味します。

「威張り散らかしている権力者や傲慢な人間が正義の制裁を受けた瞬間に溜飲が下がる気持ちになる。」
俗に言う、スカッとする瞬間です。
その欲求を追求しようとすればするほど過激になり、都合を付けて生命に対する暴力や虐待を正当化していきます。

「年収チャンネルを見て、自分より下の人間のどん底生活を見ていると自分が報われるような、救われるような気持ちになる。」
他者が失敗や不幸に見舞われ悲惨な状況にいることを喜ぶ感情。
その反面、心の内では自己肯定感を高めようとしています。

「自分が良ければ究極、他はどうなっても良い。」
物質的な価値を優先するあまり、他の人々に対して無関心、無責任な態度を取る人間がいます。
行き過ぎればそれは、社会的な問題や犯罪につながることがあります。

「人間は10歳でおおよその性格が決まり、30を超えればもう一生変わらない。」
三つ子の魂百までとも言われています。

独善的な人間はもう変わらないのではないか。
出来る限り関わらないことを願って生きるしか無い。
私たちはついついそう考えてしまいます。

しかし私は、そんな独善的と言われるような人に、必ずある質問をしています。

「あなたは、誰かに助けられたことがありますか?」
「どんな場面で、どう助けられて、その時、何を感じましたか?」
「その誰かは、なぜその時、あなたを助けたのだと思いますか?」

それがこの3つの質問です。

私は、独善的な人間は、何らかの要因によって、贈与に気付けていないだけだと考えています。
関係性の贈与について、気付かせてくれる人が周囲にいなかった。
ただそれだけなのだと。

「愛を贈ること。」
だから、いつもこの言葉を忘れないように想い続けています。


※「いのちの授業」をつくる ※産業化された屠殺と視界の政治 ※シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感

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コメント

  1. AYA

    私も中学二年生の時に、赤ちゃん体験的な授業が学校でありました!実際受けてみて、命の尊さへの気づきというよりは、そういった授業に協力的な地域のママがすごいな、ありがたいな〜という印象でした。

    なぜ自分や他者の命を軽視するようになるのか?については自分が歳をとるごとに周りの人の死に触れたり、殺人やテロ、戦争のニュースを見る機会が多くなり、慣れてしまうんじゃないかと思いました。

    個の時代ともいいますが、人と極力関わらないように生活しても生きていける時代だからこそ、他への思いやりを持ちたいですね。そうしているといつか自分に返ってきたりするかもしれませんし。

    コミュニケーションの取り方で、自分から心を開くと相手も心を開いてくれる場合が多いと思います。
    独善的な人にこそ、親切に思いやりを持ち続けると少しずつ変わっていくのかもしれないと思います。

    • 青木コーチ

      AYAさん、いつもコメントありがとうございます!

      「個の時代ともいいますが、人と極力関わらないように生活しても生きていける時代だからこそ、他への思いやりを持ちたいですね。」
      この言葉が印象に残りました。

      無言で買い物が成立するコンビニと、スマイルがメニューにあるマクドナルド。
      昔、コンビニとマクドナルドの接客が比較されていた時代がありました。

      「スマイルをメニューに入れるな、当たり前だ。」という日々の人間関係が満たされている人の意見。
      「今の時代、スマイルはお金を払っても見れないことがある。」今でいう推し活をしていた人の意見。
      「マクドナルドは見返りとしてファンを増えることを期待してスマイルをメニューに加えている。」マーケティングに携わる人からはそんな意見もありました。

      それぞれに捉え方が違っていたことを思い出しました。

      「思いもよらない幸せは、本人が意図していない善意に気付いた人からのお返し。」
      見返りを期待したアプローチからは、予想以上のものが返ってこないのかもしれない。

      そんなことを考えさせられました。

  2. 西山

    いつもありがとうございます。
    こちら、拝読させていただきました!

    命の重さに関して、私は猫を飼っているのですが、いつも思うことがあります。
    犬猫など家庭で飼育されている動物は、動物愛護団体がいて、殺処分がひどいことだとされている。
    その一方で、犬猫が食べるペットフードは他の動物のお肉が使われていたり、人間は牛や鳥や豚などをいただいている。

    すごくすごく人間って勝手だなと思っています。ですが、私もその中の一人で、犬猫がひどい扱いを受けていたら悲しくなるのに、スーパーなどに並ぶお肉は美味しくいただいています。

    私は身近なことだからこそ、命の重さと責任を子どもの頃に教えて、食肉があることに感謝ができる人間が増えて欲しいなと感じました。

    ですがその過程で不適切に扱ったり、虐殺的な行為をしてしまう人間もいるというのは驚きました。
    捉え方は人それぞれだとは思いますが、教育する側の先生の思考や生徒への伝え方を統一すれば、生徒の捉え方もある程度揃えられるのではないかとも思いました。

    「生徒たちに適切な指導や助言をする大人が側にいることが重要」
    その通りだと思います。

    シャーデンフロイデ。恥ずかしながら聞き慣れない単語でしたので調べてみました。
    『人の不幸は、蜜の味』と聞いて自分を振り返ると、自分は全く1ミリもそういう人間ではない。とは言い切れません。

    ただ私は人の不幸を見て笑うというよりは、『人の不幸を笑う人を見て、こうはなりたくないなと反面教師として見る』という感じだなと思いました。
    そういう人は、『不幸な人だな』と思って見てしまいます。

    独善的な人は、自分が恵まれている事に気付けない、何かが不足している時に他者や環境のせいにしてしまうんだと思いますが、
    私もコーチのように、直接的に指摘するのではなく、自分で気付くことができるきっかけになる言葉を投げかけたいなと思いました。

    自分の好き嫌いで対応を変える自分だけではなく、どんな人にも対応を変えず愛を贈れるような人格も育てていきます。

    • 青木コーチ

      コメントありがとうございます!

      「自分の好き嫌いで対応を変える自分だけではなく、、、」
      この言葉が印象に残りました。

      異質なものに対する特殊な感覚。
      好き嫌いの基準は、何か違和感や危険察知をされているのかもしれないですね。

      「生理的に受け付けません。」
      そんな言葉が一時期若い世代を中心に流行ったことがあります。

      それは、特に理由もないにも関わらず相手を受け付けられない状態です。
      本能的に嫌悪感を抱いた時に沸き立つものだと言われています。

      黒猫が横切る、靴紐が切れる、くしゃみが止まらない。
      理論的に実証されているかどうかはともかく、日本人は昔から感覚的なものに理由を見出して来ました。

      人によって対応を変えると、自分の基準や感性が歪んでいくような気がするんです。
      歪んだものを戻そうと思えば、関係性の記憶を辿る必要があります。

      日々の積み重ねを大切にしようと、改めて思わされました!

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