「その生き方はね、自分の魂に嘘をついていませんか。」
世界の国と地域を相手にして数多の経験を重ねて来られた方とお話をしていた際に、霊性について考えさせられる言葉を頂きました。
「霊性は、知性や論理を超えた、人間の内面的な深みや直感、感情の世界と関連している。」
人間の本質は霊性にあるという意見があります。
身体性や精神性を超えた、より深い次元の存在として霊性を位置づけるべきだと。
「知性を通じてのみ、人間は自己と世界を理解し、より高い次元の存在に到達することができる。」
一方、人間の本質は知性にあるという意見があります。
知性は論理的思考、理性、学問的知識などを通じて人間の能力を最大限に発揮する手段だと。
霊性と知性、どちらが人間の本質を形成するのか?
あなたはどう思いますか?
「人間の本質は霊性にある。では霊性とは何か。」
宗教的な体験や瞑想、芸術的な創造活動。
霊性は人間の内面的な深みや直感、感情の世界と関連している。
知性や論理を超えた、人間の内面的な深みを探求する象徴なのだと。
哲学者の鈴木大拙さんは、霊性の自覚は理性的な判断をする分別を否定することによってのみ可能だと主張しました。
彼は、知性の方から霊性に至る途は断絶しているとし、無智愚鈍なるものの魂から霊性が生まれると説きました。
また、作家の三島由紀夫さんは、現世で評価される作品ではなく、天で評価される作品を描くべきだと主張しました。
彼は、現世で一番エライのは知性だと思っているが、そんな知性を超えた神の領域に属するような何か、それが霊性だと語りました。
そして医学博士の帯津良一さんは、人間は身体性、精神性、さらに霊性という三つの要素からなっていると主張しました。
彼は、WHOが健康の定義を新しいものに改定しようと考えた際に、身体性と精神性の他に霊性を加えようとしたことを紹介し、いのちの本質とは霊性であると述べました。
「信仰で病気は治らない。」
しかしながら、霊性にまつわる内容や基準はどうしても曖昧で主観的になりがちです。
人によって感じ方や表現方法が異なり、客観的に検証することが困難と言えるでしょう。
また、霊性は、知性や論理と対立することが多く、現実的な問題に対処する能力を低下させることがあるとも言われています。
霊性に偏った人間は、現実から逃避し、非合理的な行動や思想に陥ることがあります。
例えば、宗教的な狂信やカルト的な集団に入り込んだり、自分の責任や義務を放棄したり、自分の感覚や直感に過度に依存する場合があります。
これらの行動や思想は、自分や他人にとって有害であることが多く、社会的な孤立や破滅に繋がっていくでしょう。
「人間の本質は知性にある。」
一方で、知性は論理的思考、理性、学問的知識などを通じて人間の能力を最大限に発揮する手段です。
私たちの多くは、知性を通じてのみ、人間は自己と世界を理解し、より高い次元の存在に到達することができると信じています。
例えば、哲学者のデカルトは、人間の本質は思考することであると主張しました。
彼は、自分が思考することによって自分の存在を確信し、神の存在や自然の法則を演繹的に導き出しました。
哲学者のカントは、人間の本質は理性であると主張しました。
彼は、理性は人間に道徳法則や自由を与えるものであり、人間は理性に従って自己立法的に行動すべきだと説きました。
哲学者のハイデガーは、人間の本質は存在理解であると主張しました。
彼は、人間は自分の存在の意味や目的を問い続ける存在であり、存在理解を深めることによって自分の可能性を開拓することができると述べました。
「言葉で語り尽くせるものは一体いくつあるのだろうか?」
しかし、知性が人間の全てを説明できるというのは、過信とも言えます。
もしも語れないものがあった時、その時、私たちは沈黙するしか無いのであれば、特に関係性の妙は沈黙に包まれていくでしょう。
つまり、知性は、人間の一面を照らすものであって、人間の全体像を捉えることは出来ないということです。
また、知性は、人間の感情や価値観を無視することが多く、人間の幸福感や満足感を損なうということです。
知性に偏った人間は、自己中心的になり、冷淡な態度や思想に陥ることがあります。
例えば、他人の感情や価値観を軽視したり、自分の知性や理性を他人に押し付けたり、自分の知識や論理に固執したりすることがあります。
これらの態度や思想は、自分や他人にとって不幸であることが多く、人間的な温かさや豊かさを失うことに繋がっていくでしょう。
ではここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
「二元論を越えていくとはどういうことなのでしょうか。」
あなたはどう思いますか?
霊性と知性の対立軸(二軸)は、西洋哲学における「心と体の二元論」と似た構造を持っています。
ここでいう二元論とは、哲学者のデカルトが唱えた、心(精神)と体(物質)が別個の存在であるという考え方です。
私は、人間の成長にとって、霊性と知性のどちらが重要かという問いには、一様な答えは無いと考えています。
霊性と知性だけで調和やバランスを保とうとすることは難しいと。
それぞれに価値や意義がありますが、2つでは足りないと考えています。
例えば、霊性と知性の関係を語る上で、重要な概念の一つが啓蒙です。
「啓蒙は、人間の知性を高めることによって、人間の自由や幸福を促進するという目的を持っている。」
啓蒙とは、人間が無知や迷信から解放され、理性や知性によって自分の存在や世界を明らかにすることです。
18世紀のヨーロッパで、実際に啓蒙運動が起きた事例があります。
啓蒙運動とは、科学や哲学、芸術などの分野で、理性や知性を重視する思想家や作家が活躍すること。
そして、社会や政治、宗教などの既存の制度や権威に対して批判的な態度をとった運動の総称です。
啓蒙運動は、人間の知性の力を示し、人間の権利や民主主義などの理念を生み出しましたが、同時に、人間の霊性や感性を軽視する傾向もありました。
例えば、啓蒙思想家のヴォルテールは、宗教や神の存在を否定し、理性や自然法に基づく人間の幸福を主張しました。
そんな彼の思想は、一方の立場からすれば、人間の内面的な深みや価値観を無視するものだと批判の対象になりました。
また、啓蒙思想家のルソーは、理性や文明が人間を堕落させ、自然や感情が人間を救うと主張しました。
そんな彼の思想も、一方の立場からすれば、非合理的な行動や思想を正当化するものであったと批判されました。
啓蒙運動の事例からわかるように、霊性と知性の関係は、一方を過度に重視すると、他方を欠如させることになります。
「霊性と知性の間には、相互補完的な何かが必要だ。」
霊性は、人間の存在の目的や意味を与えるものであり、知性は、人間の存在の方法や手段を与えるもの。
また霊性は、人間の感情や価値観を豊かにするものであり、知性は、人間の思考や理解を深めるもの。
私は、人間の幸福にとって、調和が不可欠なものだと考えています。
では、ここでいう調和とは何なのでしょうか。
「人間は、身体性、精神性、霊性という三つの要素からなる。」
身体性は、肉体や感覚、生理的な側面を指す。
精神性は、思考や意志、知性や論理などの精神的な側面を指す。
霊性は、人間の本質や目的、価値観や信仰などの超越的な側面を指す。
それが、二元論から三元論に再定義するということです。
三次元空間において、二軸(二柱)だと不安定であるように。
私は、三軸(三柱)で初めて恒久的な調和が導かれると考えています。
そして、二軸に加わる第三の軸は、間に秘匿されています。
つまり、三軸は人間の存在を証明する重要な因子であるとともに、人間の成長の方向性を示すものだということです。
ちなみに禅とは、内面的な洞察(霊性)と外部世界の理解(知性)を統合することを目指したものと解釈しています。
つまり、それは、第三の軸(柱)のために、間に視点を合わせる行為だということです。
事象と意匠と干渉。
あなたの眼は、間に視点を合わせた時に、何を捉えていますか?
※啓蒙思想の百科事典 ※世界シンボル大事典 ※世界の神話大図鑑
こんにちは。
75という節目の回は果たしてどのような面白いものが来るのかと待ち焦がれていましたが、想像をはるかに上回るものでした。
執筆いただきましてありがとうございます。
支柱が2本ではモノは自立しづらく、3本以上あれば自立できる。点という1次元、線という2次元、面という3次元。三覚理論は表現の幅の広い理論と感じます。使いこなせるかは片隅に置き、思考のテンプレートに組み込みたいものです。
さて、今回のブログを拝読して、私なりに人間の本質とはなにか。について考えてみましたが、暫定的な解ができました。
『人間とは、”間”を感ずるもの』なのかという結論になりつつあります。
他人との”間”を埋めるために言葉を発明し、現実から”間”を感じるからこそ理想を考え、遠くにいる人と距離という”間”を詰めるために通信が発達し…
人類の最大の発明は、言葉、もしくは火であるとされがちです。
ですが、言葉は他人との”間”や知識の隔絶という”間”、火は安全な調理をする/夜は暗く襲われたくない。という理想との”間”を埋める最適な発明なのではないかとこじつけ的に考えられます。
一方、人間とは、個ではなく集団であり、集団でなければ人ではない。とも考えました。ですが、集団であるということは、個と個の間を詰めたり、無くしたり、認めることで1つの大きな個になっていることとも考えられたため、『”間”を感ずるもの』だとすれば包含すると考えられます。
人間の本質とは何なのか。
思考なのか、精神なのか、肉体なのか。
宗教や西洋的思想においては大抵は精神や感覚、思考など、”目に見えないもの”とされることが多いようですが、
一体、何があれば、逆に何がなければ人間でなくなるのか。本質とはいったい何なのでしょうね。
星屑のかけらさん、いつもありがとうございます!
お褒めの言葉、恐縮です。
「他人との”間”を埋めるために言葉を発明し、現実から”間”を感じるからこそ理想を考え、遠くにいる人と距離という”間”を詰めるために通信が発達し…」
この言葉が最も印象に残りました!
人類の発明は何のためか。
それは、何かと何かの間を埋めるため。
このお話は、新しい解釈説が作れる素晴らしい内容だと思わされました。
勉強になります!
そして、人とは『人間とは、”間”を感ずるもの』という定義。
こちらも素晴らしいお話です。
人間はなぜ人間なのか。
私は、間を感じられることが人間とその他を分ける条件だと感じました。
私たちは、間を探し、埋めるために生きるのだと。
「個と個の間を詰めたり、無くしたり、認めることで1つの大きな個になっている。」
だから、ここに繋がるわけですよね。
人は間を結ぶために世界に関わっている。
だから人間と名付けられたのかもしれない。
そんなことを考えさせられました。