「地域が連携して、その人を守ろうとしていたのに、本人は自覚がなかった。自覚をさせたがゆえに、その人は明らかにおかしくなっていったんです。」
地域で包括的に見守りサービスを展開されている方とお話をした際に、自殺防止について考えさせられる言葉を頂きました。
「手段を制限すれば自殺率を効果的に減少させることが出来る。」
手段を禁じてしまえば自殺は予防出来るという意見があります。
例えば、農薬の使用制限や銃規制などが自殺率を大幅に下げたと言われています。
自殺の多くは衝動的な行為であり、手段へのアクセスを制限することで、衝動が過ぎ去る時間を稼げるのだと。
「自殺の根本的な原因は精神的健康問題や社会的問題にある。」
心理的・社会的支援をすることで自殺は予防されるという意見があります。
例えば、世界保健機関(WHO)の報告によると、自殺と精神障害(特にうつ病やアルコール使用障害)との関連が強いと。
だからこそ、自殺の背後にある精神的健康問題や社会的問題に対処することが重要なのだと。
自殺予防の最適なアプローチは手段制限か、それとも心理的・社会的支援か。
あなたはどう思いますか?
「自殺を衝動的な行為とみなし、手段へのアクセスを制限することで、いずれ衝動は過ぎ去っていく。」
実際に、自殺の手段制限は世界中で自殺率の減少に効果を発揮しています。
例えば、中国では農薬の使用を制限することで、自殺率が60%以上も減少しました。
同様に、銃の入手制限が米国の自殺率を下げる可能性があるとされています。
銃は自殺の手段として最も致命的であり、米国では自殺者の半数以上が銃を使っています。
つまり、アクセスを制限すれば、自殺の衝動を感じた人が、より時間のかかる方法やより回復しやすい方法を選ぶということです。
「前科や非道徳的なパーソナリティを持つ人間は誰なのか。」
しかし、そこにまつわる問題は、アクセス制限をどのように設けるかにあります。
もしも、刑罰や差別に晒そうと思えば、本人の心理的・社会的な苦痛を増やし、自立更生の道を断ち切ってしまう可能性があります。
「自殺を試みようとする人間のほとんどが、社会から孤立し犯罪や暴力に巻き込まれ、健康や命を脅かされている。」
また、もしも物質の入手が困難になれば、使用者はより危険な方法や物質を探すことになり、健康や命のリスクを高める可能性があります。
「自殺の根本的な原因は、精神的健康問題や社会的問題にある。」
実際に、自殺者のほとんどは何らかの精神疾患を抱えており、社会的な孤立や貧困などの問題に直面しています。
例えば、日本では自殺者の80%以上が精神疾患に罹患しており、失業や多重債務などの社会的な要因が自殺に繋がっています。
「精神疾患の診断や治療、社会的な支援や就労支援などのサービスを提供することが必要だ。」
だからこそ、精神疾患や社会的な問題に対処することは、自殺の予防に効果的だと言われています。
「正常だと認識していた、或いは努力をしていたにも関わらず、周囲からレッテルを貼られることで自尊心を失う人もいるだろう。」
しかしながら、精神疾患だと特定すること自体が、個人の責任や選択の余地を奪うことに繋がるという見方も出来るでしょう。
そして、社会からの期待や圧力を感じず、病気として甘え、外部への依存を断ち切ることができない状態をもたらす可能性もあります。
ではここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
「依存症を克服するためにはどうしていけば良いのでしょうか。」
あなたはどう思いますか?
依存症と言えば、例えば麻薬があります。
自殺防止の観点は、麻薬のような依存症に対するアプローチとも類似があると考えています。
そして、麻薬の使用制限と依存症治療の議論は、人間の自由と幸福に関する議論でもあります。
「麻薬の使用者は、自分の意思で麻薬を選んだのか、それとも麻薬に支配されたのか。幸福を感じているのか、苦しんでいるのか。それは誰にも分からない。」
依存症を抱えた人間にとって、自由と幸福とは何なのでしょうか。
社会は、麻薬の使用者の自由と幸福をどのように尊重し、保護し、促進すべきなのでしょうか。
「麻薬の依存症と止めるために、麻薬を使えない状態にすれば良いのではないか。」
依存症に対してアクセス制限をした場合。
それは、根本的な原因が無視され、治療が提供されないことによる慢性的な問題が継続することを意味します。
その末路は、依存症の問題が解決されず、社会的な負担が増大することになるでしょう。
「依存症を止めるために、治療をすれば良いのではないか。」
依存症の根本的な治療を推進した場合。
それは、本人が一度信じた自由と幸福を否定することを意味します。
その末路は、快楽や万能感といった動機を抑え込む際、それに代わる何かを提供出来なければ、再発されるということです。
「自分を保つために、人間は何かに依存することが必要なのではないか。」
人間は、間に生きる存在であり、支えが無ければその存在を維持することが出来ないのかもしれない。
この問いは、麻薬問題に限らず、人間の存在や価値に関する普遍的な問いでもあります。
つまり、それは、人間は一人では生きられないという意味なのではないでしょうか。
それが如実に露わになったのが依存症なのであって、誰しもがその要素を持っているのかもしれません。
あなたは、自分の自由と幸福を信じるために依存しているものがありますか?
※〈麻薬〉のすべて ※ハッパノミクス ※人間の条件
こんにちは。いつも楽しく拝読しています。
ここ何本も連続して、特に考えさせられるものや、自分自身が直面している課題にフォーカスが当たっていたりして、戦々恐々としつつも、考えさせながら楽しんでいます。
さて、私が今回のブログで特に考えさせられたのは、
『自分を保つために、人間は何かに依存することが必要なのではないか。人間は、間に生きる存在であり、支えが無ければその存在を維持することが出来ないのかもしれない。』
という部分でした。
私は一会社員ですが、
仮に、現在勤めている会社が倒産したら。
仮に、現在築かれている関係性が全てなくなったら。
仮に、最大の資本である身体に何かが起き、努力のできない身体になったら。
そしてそれらが同時に併発されたら。
そんなことを妄想しました。
恐らく、現在の私というものは公人としては上記の3点に大きく支えられているのでしょう。
私人としての私は個として完結しうるかと思いますが、公人となればそうはいきません。
仕事とは『他者に喜んでもらえた』からこそ成り立つのであれば(だからこそ対価であるお金を頂けるのであれば)、仕事をする上で他者との関わりは避けて通れません。
つまり、ある他者との関係性に依存しているのではないか。と考えたのです。
現状の環境に感謝し還元することは当然に大切なことであり、その結果として私自身が誰かの支え(依存先)になっているとしても、
サブプランは持っていないと、いつ崩壊するか分からない(自身の依存先が1つの場合、依存度が高まる)ため、1つに依存しきることの恐怖を考えさせられました。
いつもコメントありがとうございます!
「ある他者との関係性に依存しているのではないか。」
この言葉が印象に残りました。
「1つに依存しても成立していた時代と場所があった。」
持ちつ持たれつ。
財界に属する経営者はお互いの関係性を考えている場合が多いように感じられました。
「いつ切れても良いように。」
リスクを懸念して、現代では副業で新たな縁を繋ごうとされる方も増えています。
しかしここで思うのは、関係性を途切れさせないために必要なものは何かということです。
私は、敬意を払うことだと考えています。
たくさん失敗もして、周囲に迷惑も掛けて来ています。
なので、どんな時間と場所と立場に置かれても、そこは意識しようと思っています。
そんなことを思い出しました。
私もここ数日、思うところがあり、青木コーチのこれまでの投稿を読み漁っていました。
今回の記事を読んで、私は自立することに依存しているのではないかと思いました。
過去は
親や友人、恋人に依存して選択肢まで相手に委ねて、自分の人生の決断を自分で選べず、
他責思考になっていた時期があります。
その経験を経て、
自分の人生と選択は後悔のないように自分で選べる、決められる状態になりたいと思い、ここ数年で精神的に自立できてきたなぁと成長を感じていたのですが、、、
人は1人では生きられない理由というタイトルを見て少しハッとした自分もいました。
ただの自立の先にあるのって孤独なのではないだろうか?
はたまた、
私がこれまでもこれからも
なにかから自立できるのは、
依存という存在があってこそ?
そんな考えが浮かびました。
もし自立した上で、他者に愛を持って
いつでも贈れる人間になれればそんな概念すらなくなるのでしょうか?
でもそんな依存や自立って概念がなくなったとしてなにがあるんだ?
などなど
全然考えがまとまりませんでした。
ここからは余談ですが、
それらを踏まえて愛することと依存することの違いもぜひ青木コーチのお考えもお聞かせいただきたいです!
コメントありがとうございます!
「愛することと依存することの違い。」
この言葉が印象に残りました。
愛は、贈与を贈ることです。
依存は贈与を受け取るけれども、返礼をしないことです。
本来、私たちの関係性が機能するためには、サイクルが必要です。
それは、「贈る→受け取る→返礼する」というサイクルです。
「贈っても返って来ないなら、贈りたくありません。」
しかし、社会が発展するといつしか贈与がビジネスに組み込まれるようになりました。
贈ったけど、返って来ない。
贈られたけど、返したくない。
だから贈らないし、受け取らない。
経済的利益を享受するために贈与を利用した報いです。
その結果が、社会の分断を加速させたのだと考えています。
「ただの自立の先にあるのって孤独なのではないだろうか?」
どこにいても、どこまでも関係性は続いています。
実は第84話でそこに通ずるお話をさせて頂きました。
千と千尋の神隠しを引き合いに出してお話を展開していますので、興味があればまた覗いてくださいませ。
私が通っているパーソナルトレーナーさんは、体の健康が心の健康の元になっているといいます。
もし何か嫌なことや壁にぶつかった時、健康な身体があれば事態をよりポジティブに受けやすくすることができるそうです。
脳科学とかホルモンとかそういうお話だそうです。また、食事と運動習慣によってそれは劇的に変わるそうです。
そう考えると個人の精神的な問題は、現代の食生活や運動しない文化的な問題から起きやすくなっていると感じました。
私も依存症を克服するためには、依存先を分散させることが必要かと思います。
人とのつながりにおいても、家族、仕事先、恋人、友人など頼れる人や楽しめる場所、相談相手も複数いた方がいいんじゃないかと思います。
ただ全ての方面で自然にいい関係性ができるのは運がいい人だと思います。
だからこそ普通の人は努力をして関係値を作らないといけないと思います。
友達は自然にできるものではなくて、時間をかけて自分で選びながら獲得するものだと思います。
個人でも生きていける時代だからこそ、そういった努力や勉強が自分の心身の健康のために大事だと思います。
いつもコメントありがとうございます!
「健康な身体があれば事態をよりポジティブに受けやすくすることができる。」
この言葉が印象に残りました。
病は気から。
昔から言われている言葉ですが、実際にそうなのですね。
勉強になります。
だとすれば、10代~20代が得る万能感による優越感は、もしかしたら心身の発達から生まれる意識なのかもしれませんね。
人間の身体は25歳前後で成長が止まり、後は下るだけという話もあります。
「3年間は必死で働いた方がいい。」
大卒22歳で就職してから、ちょうど25歳前後になります。
もしかしたら、自然と心も身体も健やかな時期であることを見越した上での言葉なのかもしれないですね。
そんなことを考えさせられました。