「子どものためになる事業をしたいのですが、競争が激しい社会で、子どもたちの成功にどのように貢献が望ましいと思われますか?」
独立をしてこれから起業を考えている方とお話をした際に、教育について考えさせられる言葉を頂きました。
「幼児期に語彙力を高めることで、学習の基盤が形成され、将来的な学業成績の向上につながる。」
早期からの教育は、子どもの学力向上や将来の成功に不可欠だという意見があります。
幼児期の語彙力向上は、将来の学力向上に直結し、自己肯定感の向上にも寄与すると。
「子どもに自由を与えて、彼らの意思や選択を尊重し、自分のやりたいことや興味のあることを自由に探求できるようにするべきだ。」
子どもたちには、自由に成長し自分の興味や才能を探求する時間が必要だという意見があります。
自分の興味や関心を深く探求し、創造力や批判的思考力を育むことが大切だと。
早期教育を推進するべきか、それとも自由な成長と興味の探求を推進するべきか。
あなたはどう思いますか?
「子どもの脳は、0歳から5歳までの間に急速に成長し、その後は成長が鈍化する。」
この時期に多様な刺激を与えることで、脳の神経回路やシナプスが増加し、潜在的な才能や能力が開花しやすくなります。
また、子どもの学習能力は、年齢とともに低下するという研究結果もあります。
子どもの脳の発達や学習能力のピークを逃さずに、知識や技術を効率的に身に付けさせる。
つまり、早期からの教育を推奨する立場は、子どもの脳の発達や学習能力に関する科学的な知見に基づいているということです。
アメリカのハーバード大学の研究者らは、0歳から3歳までの間に音楽教育を受けた子どもとそうでない子どもの比較実験をしました。
結果、音楽教育を受けた子どもの方が、言語能力や空間認識能力が高く、IQも平均よりも高いことを発見しています。
東京大学の研究者らは、小学校入学前に英語教育を受けた子どもとそうでない子どもの比較実験をしました。
結果、英語教育を受けた子どもの方が、英語の発音や聞き取り能力が高く、英語に対する興味や自信も高いことを発見しています。
早稲田実業学校は、「豊かな学識と表現力を持つ次世代のタフなリーダー」を育成することに重点を置いた学校です。
小学校から高校までの一貫教育を行っており、小学校の段階から難関大学に進学するための先取り学習を行っています。
その結果、毎年多数の生徒が早稲田大学や東京大学などのトップレベルの大学に合格しています
「そもそもそれは、子どもが望んだことなのか?親の考える最強の子どもで良かったのか?」
しかし、早期教育は保護者や教育者の価値観や目標に基づいて行われることが多く、子どもの個性や興味を尊重しないことがあります
押し付けた高い目標や期待に応えられない子どもは、過度な負担とストレスで自己否定感と挫折感に包まれていくでしょう。
「考える力や創造力を受験のために得るというのは、どうも邪推にまみれている気がする。」
そして、学習に嫌悪感や不安感を抱き、意欲や自信を失うこともあれば、学習以外のことに興味を持たない偏った人間になる場合もあります。
つまり、自然な成長や発達に合わない内容やペースで行った教育は、心身の健康を損なうことがあるということです。
例えば、フィンランドの教育制度は、子どもの自由な遊びや友だちとの交流を重視しています。
小学校の始まりを7歳に遅らせ、宿題や試験を減らし、教科や時間割を柔軟に変えるなどの特徴があります。
その結果、フィンランドの子どもたちは、国際的な学力調査で高い成績を収めるだけでなく、幸福度や自己効力感も高いことが分かっています。
「子どもの心は、自由な遊びや友だちとの交流を通して、自分の感情や思考を表現し、他者との関係を築く。」
子どもの幸福感や自己肯定感を高めるために。
保護者や教育者の価値観や目標に子どもを合わせるのではなく、本人の意志を汲み取って心の発達に必要な環境や経験を提供するべきだと。
しかし、これもまた良いことばかりではありません。
子どもの個性や感情を尊重するというのは、往々にして子どもの行動や発言に対して制限や指導をしないことがあります。
そのため、子どもが社会のルールや価値観を理解できないまま、他者との関係やコミュニケーションに困難を抱えることがあります。
また、子どもが自分の意見や主張を押し付けることで、他者との対立や摩擦を引き起こすことがあります。
そして、自学を尊重して、子どもの学習内容やペースに介入しないことで、必要な知識や技術を習得できないまま年を重ねる場合があります。
また、子どもが自分の興味や才能に偏って学ぶことで、他の分野や視点に触れる機会を失うことがあります。
つまり、それは、一般教養に値する知識や日常生活の礼儀作法を身に付けられない可能性があるということです。
ではここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
「教育は何のために存在しているのでしょうか。」
あなたはどう思いますか?
「競争が激しい社会なのだから、子どもたちの成功に必要なスキルや資質を育成することが必要だ。」
グローバル化や情報化の進展により、社会はますます複雑化しています。
昨年までは正攻法とされていたものが、今年からは変わってしまうという現象が日常茶飯事で起きています。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ。それが嫌なら・・・」
学歴社会と揶揄されていますが、社会そのものを変えるには時間が足りません。
社会を変えるよりも自分を変えて、大勢に逆らわない方が100年という短い生を真っ当出来るのではないか。
そんな考え方に到達した結果、変化に対応できる能力や創造性、コミュニケーション能力は基礎的な力として求められるようになりました。
そして、学歴を得るために塾という存在が成立しています。
例えば、首都圏で圧倒的な合格実績を挙げるSAPIXは、御三家の合格実績も非常に多く、難関校合格へのメソッドが用意されています。
ちなみにその教育方針は、単に受験のための知識の量のみを求めるのではなく、子どもたちの「無限の可能性」を最大限に引き出すことです。
「すべては可能性に向けた善意から始まっている。」
私がここで何を言いたいかというと、保護者や教育者も学校も塾も、すべてこれだということです。
子どもの将来を閉ざそうとしている人はほとんどいません。
善意を悪意に変えるのは周囲で、状況と蓄積によって悪意に
教育の目的や価値に関する問いは、歴史上の様々な思想家や教育家が取り組んできた問いでもあります。
例えば、古代ギリシャの哲学者プラトンは、教育は人間の魂を善や美や真に導くことであり、理性や徳性を育てることであると考えました。
彼は、『国家』という著作の中で、理想的な社会のために必要な教育制度を提案しました。
それは、子どもたちに音楽や体育、数学や幾何学などの教育を施し、最も優れた者を哲学者王として社会の指導者にするべきだというものです。
「教育は人間の本性に沿って行うべきだ。」
一方、近代の教育家ジャン=ジャック・ルソーは、『エミール』で、社会のしがらみや偏見から解放された自然な状態で子どもたちを育てるべきだと語ります。
自由に遊ばせ、自分の興味や経験に基づいて学ばせ、教師は子どもの発達に合わせて導くだけで良いのだと。
これらの思想家や教育家は、教育の目的や価値について異なる見解を持っていましたが、共通点がありました。
それは、教育は人間の幸福や社会の正義に貢献するものであるという信念です。
つまり、主張は違えども、やはり可能性に向けた善意から始まっているということです。
しかし、彼らの提案した教育制度は、現実の社会や政治との対立や矛盾に直面することになりました。
例えば、プラトンの理想的な社会は、哲学者王の支配による階級制度や女性の役割などにおいて、現実のギリシャ社会と大きく異なっていました。
また、ルソーの自然な教育は、フランス革命の勃発やナポレオンの台頭などによって、現実のフランス社会と大きく乖離していました。
日本と同じように、アメリカや中国でも、早期教育と子どもの自由な成長の間で同様の議論があります。
早期教育という点では、面子を大切にする中国では「虎の母」と呼ばれる厳格な教育方針が話題になることがあります。
子どもの意志より将来の幸福を目指して、圧倒的物量で英才教育を仕込んでいきます。
一方、極端な例ですが、世界にはアーミッシュという宗教集団が存在しています。
それは、アメリカとカナダに約20万人いる移民当時の生活様式を守ることを主義とする方々です。
現代的なものや技術進歩を採り入れない生き方を選び、物質的な誇示を避けて質素な田舎暮らしを営んでいます。
「子どもたちの幸福度が高ければ国は発展するのだろうか。」
その通りだと自信を持って答えることが出来たならどれだけ話が楽になるか。
未来の幸福度は社会と確実に連動しています。
つまり、誰も教育の正解を選ぶことは出来ないということです。
出来ることは選んだ選択肢を正解だったと思えるように努力することだけです。
「教育とは、教えることではなく、道を照らすことだ。」
だから私は、導くことにこだわっているのだと、改めて考えさせられました。
あなたは、何のために教育をされていますか?
※OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来 ※教育効果を可視化する学習科学 ※自分のために生き、みんなのために生きる
やはり親は子供の幸せを願って教育するのだと思います。
幸せは子供が大人になってから自分で作るか探すものですが、その基盤となるような心身ともに健康でいられる生活を送れるようにすることが教育だと思います。
自分で稼ぐことができないと、生活にも困りますし、人間関係が円滑にできないと幸せは掴めないかもしれません。
親の考える幸せが子供の考える幸せと完全に合致することは多くないと思うので、子供には無理させず遊びを通して学んでもらいたいと、個人的には思います。
コメントありがとうございます!
「親の考える幸せが子供の考える幸せと完全に合致することは多くない。」
この言葉が印象に残りました。
幸せも違えば、やりたいことも違います。
つまり、子どもがやりたいことと、親がやらせたいことは違うなと。
矯正をすることは出来ますが、どこかで歪みが現れてきます。
「あなたはお母さんに褒められるためにサッカーやってるの?」
自分が何のためにサッカーをやっているのかを言えない子どもは高学年になるにつれて伸び悩みます。
褒められないと頑張れないから。
自分がどうしたいのか、なぜそう思えるのか。
それを力強く持っている人は逞しいなと。
改めて、そんなことを考えさせられます。
ちょうど今日ふと教育に関して考えたので、83話のブログを選びました。
教育には正解がないと考えています。どのようなプロセスで結果を出せるか。その結果が、成功なのかを疑うことが大事だと思います。
まず時期についてですが、日本の場合、小学校は1年から6年まであります。
「中弛み」という表現があっているかはわかりませんが、3年生〜4年生が重要と考えます。
つまり8歳から10歳になるまでの時期、低学年でなく、中学生になる高学年ではない、3年生・4年生が教育の時期ではないか。
年齢が、脳が低下する位置付けの5年後にあたる時期、この時期が意外と重要視されることはありません。
人生どこでターニングポイントと捉えることはできませんが、全体的な教育論としては、中弛みにあたるこの真ん中の時期の教育・行き先を照らす時期がとても重要かと思います。
「何のために教育をするのか?」は、理解していることは、説明できる。
人が何かしらの教育を受けることによって、理解する。
理解すれば、分かち合う力を養い、良い社会づくりを作り上げることができる。
そのために教育をするのではないでしょうか。
P.S 私が今日考えたことは、「お笑い」と「飲食業」と「教育」はリンク性が高く、とても困難な事が多いと考えていました。
コメントありがとうございます!
「理解すれば、分かち合う力を養い、良い社会づくりを作り上げることができる。」
この言葉が印象に残りました。
仰る通りで、現場で見ていても、3年生〜4年生の時期は一番子どもが変化するタイミングだと感じています。
4年生(およそ10歳前後)の時にほとんど素地は固まります。
「なぜあの人は、自分にその言葉を伝えたのか。」
言われた言葉に反応することも大切ですが、なぜその言葉だったのかに気付ける子どもは尊敬に値します。
また、伝える際には「誰が、何を、なぜ」という3点を抑えるように心掛けています。
笑顔は人間だけの特技だという意見もあります。
周囲を照らすような笑顔が、居心地の良い空気感を醸成するのだと思っています。
改めて初心を忘れてはいけないなと思わされました。