「理解なんてものは、おおむね願望に基づくものだ。」
押井守『イノセンス』には、理解について考えさせられるセリフがあります。
人間なら誰しもが持ち合わせているもの。
それは、こうあって欲しいという希望や願望です。
俗に言う都合の良い解釈が、望むものに親しみを持つ解釈なのだとすれば。
理解とは何をもってして理解というのでしょうか。
あなたはどう考えますか?
「考えるな、感じろ。直感に従え!」
人々が直感的に物事を理解することで、深い洞察や新しい視点を得ることができるという意見があります。
それは、感覚的理解として、人々が直感的に物事を理解すると感じる瞬間や経験に基づく理解を指します。
つまり、感じる心が望むように現実を解釈すること。
それが感覚的に理解するということです。
「論理的に、理性的に、悟性的に。それが人間らしさだ。」
一方では、知性や理性、悟性が必要だという意見があります。
それは、知識的理解として、学習や教育を通じて得られる論理的・体系的な知識に基づく理解を指します。
つまり、論理的に落ち着けるように現実を解釈すること。
それが理性的に理解するということです。
「詰め込み教育からゆとり教育へ。」
伝統的な教育方法は知識の伝達を重視する一方で、近年の教育改革では生徒の感覚や経験に基づく学びを重視する動きが見られます。
実際、OECDのPISA調査によると、生徒の学習動機や興味は学習成果に大きな影響を与えることが示されています。
具体的には、興味を持って学習する生徒は、興味を持たない生徒に比べてテストのスコアが平均で15%高いという結果でした。
では、ここであなたにも一緒に考えて頂きたいことがあります。
それは、”暗記は本当に必要ないのか”ということです。
言い換えれば、”なぜ暗記が重要視された時代”があったのかということです。
人間は経験を通して成長していくものです。
では経験とは何か。
「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。」
肉体的な経験、精神的な経験、感覚的な経験、理性的な経験、悟性的な経験。
共通するのは、記憶です。
つまり、理解とは記憶に基づいていると考えることが出来るのかもしれません。
「過去の出来事を忘却しても、想いまで消えたわけじゃありません。」
そして、もし仮に忘れてしまったとしても残響は残るはず。
私はそう信じてみたい。
「時計に筋トレか・・・、お互いしょうもない記憶のカケラにしがみついてきたものね。」
未来では肉体と精神が分離して、身体の機械化や魂の複製が可能になるかもしれません。
それは、自分が自分であったという証拠を見失うという現象を引き起こします。
もしも理解が経験並びに記憶に基づいて行われているのだとすれば。
もしも経験と記憶が外部の知覚拡張装置によって操作、修正、追記、保存、更新が出来るようになったならば。
私たちは上書きを繰り返して自らをアップデートしていくようになるでしょう。
それは、自分どころか、人間であったことさえも忘れていく可能性があります。
「自分を取り戻せないことが、新時代の真の絶望である。」
生物有機体としての生存本能と鋭敏な知覚で保たれる僅かな意識。
それだけを残した自我と個体は細く短い時を生き永らえていく。
やがて自分がなぜ自分を更新しているのか、その意味さえも忘れて。
でも、それでも、残響さえあれば辿れる可能性があります。
メタ認知と認知的不協和について、私たちはもっと真剣に考えるべきなのかもしれない。
そんなことを考えさせられました。
あなたは、次世代における理解力の定義について、どう考えますか?
※イノセンス とは ※千と千尋の神隠し とは ※攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX とは
この記事へのコメントはありません。