事例分析

【CASE26】ブルシット・ジョブから考える労働価値の未来

今回は、「ブルシット・ジョブ」の観点から、「労働価値」の未来について考察していきます。


問題提起

「あってもなくてもやってもやらなくても変わらない、どうでもいい仕事はなぜなくならないのか?」
アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』において「ブルシット・ジョブ」という概念を提唱しています。
それは、「クソどうでもいい仕事」を意味した言葉です。

「生産性が悪いからといって、効率化を求めすぎるあまり、現場を見ずに机上の数値に目を奪われてはいないでしょうか?」
グレーバー氏によれば、社会的仕事の半分以上は無意味だと。
被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態が存在していると。

つまり、仕事のブルシット・ジョブ化が、職場の生産性と満足度、そしてワークライフバランスを確実に悪化させていると警鐘を鳴らしています。

では、そのクソどうでもいい仕事が幅を利かせる一方で、そのしわ寄せはどこに行ったのでしょうか。
それが、エッセンシャル・ワーカーたちでした。

エッセンシャル・ワーカーとは、社会基盤を支えるために必要不可欠な仕事に従事する労働者のことです。
生活必須職従事者とも呼ばれ、例えば、医療・福祉や保育、運輸・物流、小売業、公共機関などが該当されます。
当然ながら、そこには 警察官、警察行政職員や国境警備隊や海上保安庁、消防、国防に関わる行政職員及び、軍人や自衛官も含まれています。

とはいえ、誤解を恐れず言えば、世のすべての仕事は必要だから存在しています。
その意味で言えば、本来は優劣や差を見出す必要はないという意見も考えられるでしょう。

しかしながら今回は、現代社会において、我々の生活基盤を支えるエッセンシャル・ワーカーの労働条件が低劣であるという事実に着眼していきたいなと。
なぜなら、生活必須職は人手不足や所得格差で話題に挙がる業種でもあるからです。

彼らの存在なしには社会機能が維持できないにもかかわらず、その貢献度に見合った評価や報酬が与えられていない現状は、一体何に起因するのでしょうか。
そして、ブルシット・ジョブの蔓延は、未来の私たちにどのような影響を与えていくのでしょうか。


背景考察

「殺処分動物の保護団体に寄付金が集まる傍らで、貧困に苦しむ人たちがいる。」
命を懸けて人命救助に当たる消防士が、高額な報酬を得る有名俳優と比較して経済的に報われていない現実がある。

或いは、未来を担う若者を育成する教師が、娯楽を提供するプロスポーツ選手よりも低い待遇に甘んじている。
または、我々の食卓を支える農業従事者は、デジタルサービスを提供するテクノロジー企業のCEOと比べて収入面で大きな格差が存在する。

このような労働の価値と報酬の不一致は、どのような社会的メカニズムによって生じているのでしょうか?
もちろん、市場規模や知名度の差という結論も見出だせるのですが、より深く考えていきたいところです。

「私がその仕事を辞めた瞬間に家族が、社会が、日本が、そのような思いが逡巡するので辞めるに辞められないのです。」
まず、その背景には「必要性の呪縛」(造語)という現象があると考えます。
これは、社会に不可欠な仕事に携われば携わるほど、その欠如が社会全体に甚大な影響を及ぼすことを自覚してしまう現象です。

それにより、勤勉で真面目な労働者ほど、仕事で金を稼ぐことに罪悪感を抱いてしまう。
そうなると、「社会を支えるという高尚な活動をしているのに、賃金交渉をするなんて不謹慎極まりないことだ。」と考えるようになっていきます。

また別の観点から言えば、エッセンシャルな仕事とは、社会のインフラを整える仕事とも言えます。
つまり、必要不可欠な労働は社会関係に大きな影響を及ぼすため、供給を安定させるために国家が介入するということです。

例えば、エッセンシャル・ワーカー(医療・福祉や保育、運輸・物流)たちは民間資格ではなく、国家資格を保有している場合がほとんどです。
供給が安定するように国家が調節をしているために、相対的に賃金も調節されてしまっている可能性があると考えることも出来るでしょう。
例えば、介護福祉事業の収支が、常に助成金や補助金を前提として組まれていることからもそれは明らかです。

それは、言い換えれば、「需要と供給の歪みが生じている」とも言えるでしょう。

「当たり前で、大切なものは、決して目に見えない。」
本来、エッセンシャルな仕事とは、感謝をされながらサービスを提供する立場にあります。
しかし今では、エッセンシャル・ワーカーの貢献が日常生活に深く浸透しています。

そう、ワーカーの存在が社会に浸透すればするほど、消費者はそこに価値を感じなくなっていく。
やってもらって当たり前、まるで奉仕活動の一部だと思い込み、果ては減点方式でワーカー達を品評するようになります。

配達時間が遅延すれば文句を言い、介護中に痛みが走れば文句を言い、子どもが泣いて帰れば文句を言う。
加点方式ではなく、減点方式で見るために、落ち度を突いて利用料金の割引を要求すると。
すると次第に、経営も悪化するし自分がそこで働く理由も見出だせなくなっていくと。

こうした状況は、個人に深刻な葛藤を生み出します。

まず、社会に貢献しているのに報われないという「自分の仕事の価値への疑問」
次に、やりがいと収入のどちらを優先すべきなのかという「職業選択の迷い」
そして労働価値が正当に評価されない社会への「社会的不信感」です。

エッセンシャル・ワーカーの葛藤はどうすれば払拭されていくのでしょうか。
これは賃金とやりがいが充実すれば解決する問題なのでしょうか。
ここから、より深く考えて行きましょう。

かつて、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、プロテスタントの倫理に「労働そのものがモラル上の価値とされる社会」を見出しました。
まるでアリとキリギリスの寓話が示すように、働くことが美徳とされる社会において、労働は道徳的義務になるのだと。
つまり、それは、プロテスタントの教義に信心深く生きる者たちには、賃金とやりがい以外に信仰という第三の要素があったということです。

20世紀は、労働を信仰が支えた時代でした。
しかし、21世紀はテクノロジーの進化により「労働から解放された労働」が徐々に顕在化してきました。
例えば、イメージ(名声、知名度、雰囲気)でお金を稼ぐというのは典型的な脱労働であり、そこには歴々とした信仰が必要ありません。

フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが提唱した記号型消費に例えるならば。
思い描く理想の未来と現実のギャップ、その差が埋まるかもしれないという期待感がイメージされればモノは売れる。
反対に、思い描く理想のキャリアと現実のギャップ、その差が埋まるかもしれないという期待感がイメージされればヒトは働く。

それは、つまり、21世紀の労働は、賃金・やりがい・記号(イメージ)によって成立しており、記号型消費だけでなく記号型労働(造語)も展開されているということです。
そして言い換えれば、労働は生計の手段ではなく、社会参加や自己表現の場として再定義されるようになりました。

この新たな労働モデルは、20世紀の常識を覆すものであり、「モラルとしての労働の消滅」を示唆していると言えるでしょう。

ではエッセンシャル・ワーカーたちが、イメージを操る術(記号型労働の作法)を習得すれば良いのでしょうか。
否、勤勉なワーカーであればあるほど、働かないことへの罪悪感や、自己実現と経済的安定のジレンマ、社会的評価とのギャップなど、新たな悩みが生まれると考えられます。
言い換えれば、労働の市場価値と社会的価値が一致しないことによる「芸術家のジレンマ」が降り掛かるでしょう。

そして現在、こうした他者に寄与する仕事が低く評価される現状を解決すべく、多くの国や民間が動いています。
例えば、「価値の見える化」や「ソーシャルコイン」の導入といった革新的な社会システムが提唱されています。

しかし、新たなシステムの導入は「評価基準の公平性」をどうやって担保していくのかという、新たな社会課題を生み出します。
社会貢献度をどのように数値化し、公平に評価するのか、これは倫理的なジレンマを伴う複雑な問題と言えるでしょう。

また、「労働のゲーム化」や「時間経済の導入」といった創造的な解決策も提案されています。
これらは労働を楽しみながら社会貢献できる仕組みを構築し、労働価値の再定義を試みるというものです。
しかし、これもまた「収入とやりがいのバランス」という永遠の課題に直面するでしょう。

「労働の価値を再定義し、社会的貢献度に応じて報酬を与える新たなシステムを構築すれば世界はきっと良くなる!」
仰る通りなのですが、立派なものを作ることだけに終始してしまうと、深いパラドックスに取り込まれていきます。
つまり、そのシステムをメンテナンス(維持・調整)しなければ、また新たな不公平や葛藤を生み出す可能性があるということです。

例えば、「社会貢献度を数値化する」というアイデアは一見合理的に思えます。
しかし、人間の行為や情熱、創造性を単純な数値に還元することは可能なのでしょうか。
ここで「計量化の限界」という社会学的概念が浮上します。

また、愛情や思いやり、創意工夫といった定性的な要素を数値で評価することは、労働の本質を歪める危険性を孕んでいる。
社会貢献度が高いとされる職業に人々が集中すれば、「貢献度のインフレ」が起こり、結果的にその価値が希薄化する可能性も想定出来るでしょう。
これは経済学でいう「価値のパラドックス」に通じる現象であり、水とダイヤモンドの価値比較に似たジレンマを生み出す。

それは、まさに、冒頭に申し上げたように、ブルシット・ジョブとエッセンシャル・ワーカーの対比そのものです。
そして、社会システムをメンテナンスする者こそ、エッセンシャル・ワーカーなのだと定義することも出来るでしょう。

すると我々は、最終的に「労働の価値とは何か」という哲学的な問いに直面していきます。
労働が道徳的な価値とされていた社会から、私たちは労働をどのような価値と結び付けて行くべきなのでしょうか。

「エッセンシャル・ワーカーの価値を正当に評価し、労働の社会的価値と市場価値を一致させるためにはどうすべきなのか?」
この問題提起は、社会全体が「労働の価値」と「人間の幸福」について再考する契機となるでしょう。

例えば、ドイツの哲学者ハンナ・アーレントは、「労働(labor)」、「仕事(work)」、「行為(action)」という三つの人間活動を区別しました。
中でも、特に「行為(action)」が公共空間での自由な自己表現と他者との関係性を生むと説いています。
つまり、その意味で言えば、我々が真に求めているのは、この「行為」の場を拡充し、人間性を豊かにすることなのかもしれません。

また、さらに一歩踏み込めば、フランスの人類学者マルセル・モースが提唱した労働と報酬の関係を超越した「贈与の経済」という概念があります。
この理論は、物質的な交換だけでなく、信頼や絆、社会的連帯を重視する経済モデルです。
もし我々がこの視点を取り入れることができれば、労働の価値を数値や報酬だけで測る現代資本主義の限界を突破できるかもしれません。

「そして我々は、労働の再定義を通じて何を目指すべきなのか?」
エッセンシャル・ワーカーが不遇だと、ブルシット・ジョブは不要だと、単に報酬や評価の不公平を是正することに終始するだけではなく。
この問いに真剣に考えるということは、人間の存在意義や幸福、社会の在り方そのものを見つめ直す契機にもなるのだなと。

そんなことを考えさせられました。


結論

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コメント

  1. 星屑のかけら

    こんにちは。本日のブログも楽しく拝読させていただきました。
    仕事の価値の定義。切り込みづらいテーマに感じています。

    というのも、”その賃金が普通だ。”ということを信じている人はそもそも仕事の価値について考えないため、
    (終身雇用前提のサラリーマンが典型的。どんな仕事をしようとも勤続年数によって給与は増加≒仕事の価値が高いと錯覚)
    自身の仕事の価値を考えることがない気がします。
    逆に考える人は、自営業だったりとより高価値な仕事を意識していく。

    会社においては管理職が良い給与をもらいます。それは『チームとしての成果を上げること』が仕事であり、『チームの成果に最終的な責任を負う』からこそ高給取りになります。決して、”タスクマスター(ブルシットジョブの提唱者グレーバーの造語?)”であることに価値を置いていないはずです。その責任に対しての価値であるのだと考えています。
    だからこそ、(どのような実務をしているかはさておき、)企業の社長は会社の責任を取るため高給取りになり、部長、課長、係長と責任範囲が広いほど高給取りになるのだと考えられました。
    この構図は、中世の貴族社会にもあったと思われます。(血統が良く国を統べる国王が尊く、広い領地を収める≒税収を確保する順に爵位が与えられていたと。)そして、貴族が血統のみを尊び、責任を放棄した結果革命につながったとも考えられそうですね。
    ノブレスオブリージュにも通じるかと思います。

    現在の仕事は、生活基盤として欠かせない農業やインフラ整備などの仕事が”誰にでもできるから”軽んじられる傾向にあり、生活基盤には直接影響はしない職業が重要視されている。その重要視されている仕事の中に一見役に立っていないブルシットジョブがあると。
    現場目線ではブルシットジョブに気づけないからこそ、コンサルという客観視できる視座で、特定分野に集中してメスを入れられるポジションというのは有難いものになるのだと感じました。

  2. 古澤泰明

    意味のない仕事も経済には貢献している部分はある。極端な例だが道路に穴をほって埋めることをすれば土建屋の収入になり、その作業をした人の給与になり、給与から消費が生まれ、また消費がサービスを与えた人にとっては収入となっていく
    エッセンシャルワーカーの不遇は意味のない仕事で高収入を得る人がいるという社会の、資本主義の構造からきていると思う
    結局は現代版の階級制度、奴隷制度になってしまっているのではないか?肉体的につらく、大変な仕事は入れ替わりも激しく比較的簡単に就けるので、どうしても収入が低い。そこから成り上がる人もいるがごく一部。r大なりgなど資本主義の仕組みがそもそも労働に対して不利です
    自国でエッセンシャルワーカーが不足すると他国から労働者を受け入れることなどは金持ちは働かない現代の階級制度だと
    官僚の天下り、公務員の好待遇など現代の貴族制度だと感じる
    ただ、公務員にならなかったのは私なので
    文句はいわないように心がけている
    以前の講座で話しましたがモバゲーやDNAなど、クソゲームで若者の時間を奪い、金儲けをする企業が上場して資金を集め、社会的に評価される、こういった仕組みがおかしいとならないので、やはり資本主義が根本的に変わらないと、この問題は解決しないと考えます。

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