事例分析

【CASE50】あなたは、本当に「あなた」の意志で動いていますか?

問題提起

「私という一人称が、この先、私たちに変わるかもしれない。」
スマートフォンを手に、私たちは日々様々な情報に触れ、考え、そして「意志決定」を下しています。
ニュースのおすすめ記事から、SNSのタイムラインに流れてくる知人の投稿、そして職場で下す一つ一つの判断まで。
それらは紛れもなく、あなたの「意志」に基づいた選択だと、誰もが信じて疑わないでしょう。

しかし、その「意志」が、本当にあなただけのものだと、言い切れるでしょうか?

「ネコミームが流行ると類似の内容を投稿して、さらに大勢に波及される。」
そう、ここであなたにも考えて頂きたいことがあります。
なぜ、ある特定のニュースや出来事に対して、人は同じような感情を抱き、同じような意見を表明するのか。

例えば、特定の個人や企業に対する批判が、一瞬にして燎原の火のように燃え広がる現象。
まるで「みんなの総意」であるかのように、その対象を社会的に“抹殺”してしまう現象。
——いわゆる「キャンセルカルチャー」と呼ばれるものが、これほどまでに頻繁に起きるようになったのは、一体なぜなのか。

私たちは皆、自分自身を「個性的な存在」だと認識し、独自の価値観や思考を持つ「個別主義者」であると自負しています。
SNSのプロフィールには、思い思いの「自分らしさ」が表現され、誰もが「自由な発信」を謳歌しているように見えます。

それなのに、なぜ私たちは、かくも容易に、同じような感情や意見の波に飲み込まれるのか。
そして気付けば、どこかの「界隈」の一員になっている感覚を覚えるのでしょうか?

もしかしたらそれは、私たちの日常に潜む、小さな違和感かもしれません。
しかし、この小さな違和感の裏には、私たちの社会、私たちの未来。
そして私たち自身の「意志」のあり方そのものを根底から揺るがす何かがある。

まるで、あなたが慣れ親しんだ街の風景の裏に、別の、見えない都市が築かれつつあるかのように。
それは、あなたが意識しているよりも、ずっと身近で、そして衝撃的な話になるでしょう。


背景考察

「データという“水”があり、アルゴリズムという“波”がある。」
現代社会は二つの大きな流れによって形作られていると考えられます。
一つは、「情報の洪水」であり、もう一つは、その洪水を操る「見えない手」です。

1995年、世界のインターネット普及率はわずか1%でした。
当時、インターネットは一部の研究者やギーク(熱心なマニア)たちの間で共有される、特殊な“遊び場”のようなものでした。
しかし、それからわずか約30年で、世界人口の約67%がインターネットに接続し、その数は今も増え続けています。

さらに、Facebook、X(旧Twitter)、TikTokといったSNSは、2025年には全世界で50億人近いユーザー数を抱えています。
この数字は、私たちの日常が、どれほどまでにデジタル空間に浸透しているかを物語っています。

私たちは、オンラインで物を買い、動画配信サービスで映画を観る。
SNSで友人や見知らぬ人々と交流し、ニュースアプリで世の中の出来事を追い掛けています。

「ネットでは饒舌、リアルでは寡黙。」
そう言えば、家族と会話する時間が減ったと感じるのは私だけでしょうか。
寡黙を美徳として扱われるべきだとも考えますが、この場合は少し様子が違いますよね。

私たちのクリック、スクロール、滞在時間、検索履歴。
家族の時間を犠牲にしてまでする「いいね」という行為の一つ一つには膨大な「データ」が蓄積されています。

その蓄積されたデータは雨のように溜まり“湖”となっていく。
“湖”の水は、やがて川に再分配されるのですが、そこで特定の方向へ導こうとする「見えない手」が介入してきます。

そう、見えない手の正体はアルゴリズムです。

アルゴリズムとは、簡単に言えば、特定の目的を達成するための手順や仕組みのことです。
例えば、「おすすめの商品」や「次に見るべき動画」は「より買わせて、よりハマって、より関与させる」ためのサジェストです。

「情報を伝播させるために最も重要なのは、人と情報の間合いである。」
情報は常に、喜びや怒り、共感や嫌悪といった感情を引き出すものです。
とするならば、最適なタイミングに、最適な形で提示されることが望ましいと思いませんか。

つまり、アルゴリズムとは、人が持つ個々の感情と情報が持つ個々の性質を最適な間合いで引き合わせるものだと言えます。

最適な間合いで引き合えば、情報は感情によって増幅されて、爆発的な伝播が始まると。
そう、つまり、「バズる」とは、人々の感情が増幅された結果だということです。

「かつての集団行動には、リーダーや組織といった「中心」が必要だったが‥。」
では、アルゴリズムが発達すればするほど何が起きるのか。

一つ一つの水滴(個人の行動データ)が、特定の感情を原動力としてネットの海を駆け巡る。
動けば波紋が生まれるように、社会全体で静かに、しかし強力に広がり、大きな“うねり”を生み出していく。
つまり、全体として、意図せぬ「感情の波」や「世論の潮流」を創り出していく。

そう、21世紀の中頃には、私たちがこれまで知っていた「個人の意志」や「集団の論理」が変わっていくでしょう。

「私を動かしているのは、本当に私自身のなのだろうか?」
自分を動かすのは、個人の意志や集団(組織)の規律ではないという考え方。
「第三の意志決定主体」という、別の主体が存在する可能性について、哲学や科学はこれまでも様々な角度から探求してきました。

そして興味深いことに、ほぼ同時期、1970年代に二人の思想家が、人間中心ではないスケールで「主体性」を問い直す著作を発表しています。

「私たち生物個体は、遺伝子が自らを複製し、未来へ存続するための「乗り物」にすぎない。」
一人は、イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンス。
彼の著書『利己的な遺伝子』(1976年)は、生物の進化を個体ではなく「遺伝子」の視点から捉え直しました。

人間は遺伝子が持つ自己増殖という「意志」に従う存在なのだと。
つまり、それは、ミクロのスケールから主体性を捉え直した話です。

「地球上の生物、大気、海洋、地質などが相互に作用し、まるで一つの生命体のように、地球環境を自己調節している。」
もう一人は、イギリスの未来学者ジェームズ・ラヴロック。
彼は、地球とその生命圏全体を一つの巨大な生命体「ガイア」とみなす仮説(ガイア仮説、1970年代)を提唱しました。

人間は、地球の意志に従って調整されているのだと。
つまり、それは、マクロのスケールから主体性を捉え直した話です。

ミクロの「遺伝子」とマクロの「地球生命圏」。
スケールは全く異なりますが、どちらも「個別の人間」という枠を超えて、「意志決定」や「自己維持」を行うかのような存在を示唆しています。

そして今、私たちの目の前には、このミクロとマクロの中間に位置する、ネットワークという新たな「場」が広がっています。

無数の個人(ノード)が繋がり合い、情報や感情が光速で飛び交い、そこにアルゴリズムという見えない力が介入する。
このネットワーク上で発生する、誰の意図でもないのに全体として特定の方向へ進んでいく現象。
個人の自由な発信が、いつの間にか巨大な集合的な流れとなり、個人を飲み込んでいく「個別主義者のパラドックス」。

それはまるで、私たちのデジタルな行動が、遺伝子や地球のシステムのように。
個人の意識を超えた何かの論理に従って動き始めているかのようだとは考えられませんか?

この奇妙な一致、異なるスケールで現れる「非人間的主体」の兆候は、一体何を意味しているのでしょうか?

それは、遺伝子のように自己複製を目指す論理を持つのか。
地球のようにシステム全体を自己維持しようとするのか。
あるいは全く別の何か新しい存在なのか、そして、それが私たちの自由意志や社会のあり方に、どのような影響を及ぼすのか。

今、あなたのスマートフォンの中で、あなたの知らないところで、この見えない意志の胎動が始まっているのかもしれません。
次回の後編では、この「第三の意志決定主体」の正体について、さらに深く迫っていきます。

 

【専門用語/学術用語の解説】

■ ミーム(meme): インターネット上で、面白い画像や動画、フレーズなどが次々と真似されて広まっていく現象や、そのもとになるコンテンツのこと。例えば、「〇〇してみた」系の動画や、特定の猫の画像に面白いセリフをつける遊びなどもミームの一種です。
■ キャンセルカルチャー(cancel culture): 有名人や企業などが、過去の発言や行動を理由に、多くの人々から一斉に批判され、SNSなどで非難の声が高まり、結果的にその人の社会的地位や活動が危うくなる現象。特定のリーダーがいるわけではなく、多くの個人の批判が集まって大きな力になります。
■ 個別主義者(individualist): 個人の自由や権利、独自性を大切にする考え方、またはその考え方を持つ人のこと。現代社会では、多くの人が「自分らしくありたい」と願う、ある種の個別主義的な傾向が強いと言えます。
■ 利己的な遺伝子(The Selfish Gene): 生物学者リチャード・ドーキンスが1976年に書いた有名な本のタイトル。この本では、生物の進化を、個々の生物ではなく「遺伝子」が自分自身を増やそうとする「利己的」な活動として説明しています。私たちの体は、遺伝子が生き残るための「乗り物」のようなものだと考えます。
■ ガイア仮説(Gaia hypothesis): 科学者ジェームズ・ラヴロックが提唱した考え方(1970年代)。地球全体を、生物と非生物(大気、海、地質など)が互いに影響し合い、まるで一つの大きな生命体のように環境を調節しているシステムとみなします。地球が自分で自分の環境を守っている、と考える仮説です。


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コメント

  1. 古澤泰明

    民主主義の根幹が知る権利と言論の自由だとしても、歴史を見るとマスコミによる洗脳の歴史ではないかと私は思う
    日本で言えば戦前は新聞。戦後はテレビ、雑誌がネットが市民権を得るまでは絶大な力を誇っていた。
    資本主義の大量生産、大量消費を効率よくするには情報操作(テレビCMや雑誌など)で大衆に投入することが有効であったと思う。売れる消費、流行やブームなど昭和、平成を振り返えると全てが洗脳のようなものだったのではないかと今にして思う
    ネット、SNSがでて、知ることも発信することも容易にはなったが、天国に向かわずに逆に地獄に向かっているのではないか?
    TVや雑誌よりも手強いアルゴリズムやAIなどにより、今後はより巧妙に、気づかれずらい扇動、情報戦に突入すると思う
    「ハルメンの笛吹」のように気づいた時には滅びの道を歩んでいて、もう戻ることさえできない、ような状況にならないかを懸念している

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