「不道徳行為を望むのは、大きな誤謬の永続を望むことである。」
哲学者ショーペンハウアー氏が残した言葉は、各個人が持つ意志をどこまで尊重すべきかを考えさせられます。
「個人の自由や選択を尊重するべきであり、社会は多様性を受け入れるべきだ!」
例え不道徳な行為だとしても。
それは個人の自由や選択の結果であり、それを制限することは個人の自由を侵害するものだという意見があります。
社会は多様性を受け入れ、異なる価値観や行動を尊重するべきだと。
「不道徳な行為まで容認すれば、やがて社会の道徳や倫理が乱れる!」
不道徳な行為は、社会全体の倫理や道徳を乱す要因になると。
一方で、容認することは社会の秩序や安定を脅かすものだという意見があります。
個人の自由や選択は、社会全体の利益や安全を損なうことなく行われるべきとも言われています。
「当たり前のことを問う必要ありますか?」
当たり前のことを当たり前にすることは、当たり前だと言う人がいます。
しかし、万人に共通の当たり前は存在するのでしょうか。
すなわち、個人や一部の集団にとっての善ではなく、社会全体が首を縦に振るような共通善なるものは存在するのでしょうか。
SNSやインターネット上での不道徳な行為が増加しています。
例えば、ネット上での誹謗中傷やプライバシーの侵害、不正アクセス。
これらの行為は、個人の自由や選択の結果として行われることが多いが、被害者や社会全体に与える影響は計り知れません。
それらは現実に例えれば何か。
村八分、不法侵入、ストーカー行為。
「そんなのやっちゃいけないに決まってるじゃん。」
これらの行為が容認されると社会の道徳や倫理が乱れ、社会の秩序や安定が脅かされる可能性があります。
字面を見るだけで、あなたもそう感じるのではないでしょうか。
しかしネット上では、これらがいとも容易く行われるえげつない行為として成立しています。
では、ここで一緒に考えて頂きたいことがあります。
私たちの振る舞いはどこまで許容されるべきなのでしょうか。
個人と社会は相互に影響を与え合うものであり、どちらも尊重されるべきものです。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人間の最終目的は幸福であり、これを追求することが共通善であると主張しました。
しかし、現代の多様な価値観や文化の中で、共通善の普遍性は疑問視されています。
例えば、人権や平等といった価値は、西洋の近代思想に基づくものです。
他の文化や歴史的背景を持つ社会では異なる解釈がなされることがあります。
つまり、共通善の内容や基準は、社会や文化の変遷とともに変わっていくものだということです。
「人間は当たり前だと認識した時から忘れていく。」
なぜ当たり前が当たり前にならないのか。
それは、当たり前だと思った瞬間から思考されなくなるからです。
共通善の内容や基準は時代や文化によって変わるかもしれません。
私たちに出来ることは、それを忘れないことです。
だからこそ、その探求自体が価値あるものだと言えるのではないでしょうか。
「もしかすると、探求こそが人間を人間足らしめているのではないか?」
私はそんなことを考えさせられました。
個人や社会が自らの価値観や道徳観を深く省察すること。
他者との対話を通じて共通の価値や道徳を探求する姿勢を持つこと。
それらのきっかけにこそ、やはり価値があるのだなと。
毎日投稿しているこの記事も、誰かの一助となれたら嬉しいなと。
きっかけを生み出せる人間で在りたい。
そんなことを考えさせられました。
※共通善についてもっと深く知りたい ※ショーペンハウアー とは ※アリストテレス とは
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