「アニメーターの年収は薄給でいい。その代わり、こだわりに気付いてほしい。」
今季のアニメで作画を担当されている方とお話をした際に頂いた言葉です。
アニメーション業界の未来について考えさせられました。
「アニメーションの魅力はシナリオやボイスだけでなく、アニメーターの手による独特の動きや表現にもある。」
アニメーターの技術や経験があればこそ、作品の世界観を表現して浸れる環境を生み出せるという意見があります。
すなわちそれは、ジャパニメーションの真髄は作画担当者たちの矜持によって支えられているというものです。
「AI技術の進化により、アニメーション制作はより低コストで効率的に作れる。」
面白さを分解して、短期で良質な映像制作が実現させること。
それは、制作会社や放送局の立場から見れば魅力的に映ります。
アニメーターの薄給問題を解決させることも出来て一石二鳥の良案であるという意見もあります。
AI技術による制作が増えることで、アニメーターの仕事の機会が減少することは、彼らの生計やキャリアに大きな影響を与えていきます。
そして、AIによるアニメ制作が主流となれば、日本のアニメ文化の特色や独自性が失われるのではないかという懸念も想起されます。
あなたはこの問題をどう克服していくべきだと考えますか?
「誰かを幸せにしたかったら、まず自分が幸せになれ。それが一番大切なことだ。」
minori『ef – the latter tale.』には、今もなお越えられない壁と評されるムービーがあります。
美しき空の描写、水の波紋、天使の階段。
見るものを魅了するだけでなく、唸らせるような描写の数々。
稀代のアニメーター新海誠さんは、どんな想いで作画を担当されていたのでしょうか。
その作品は、なぜ、そう作られたのだろうか?
私は、そこに興味があります。
仕事を全うすることは、当たり前と言われますが当たり前ではありません。それは、何かしらの情熱が注がれて初めて全うされ得るものです。
つまり、情熱の原動力は好きになることから始まっている。
「あたしの目が曇ってるのかもしれないけど、たぶん誰もが自分は幸せなんだって、自分を騙してるんじゃないだろうか。」
やりたいことが見つからないという声をよく聞きます。
もしかするとそれは、好きになることへの恐怖や嫌悪感がそうさせているのかもしれません。
のめり込むとまずい、とことん突っ走ると取り返しがつかないかもしれないと。
「抑制の効かない怪者になるよりかは、自律した個人で在りたい。」
私たちは、そもそも義務教育課程で、自分で自分に自制して歯止めと保険を掛けることが賢い大人だと教えられて来ました。
だから、卒なく自分を納得させるような理解を生み出して、押し留めることが正解だと考えてしまう。
しかし、時に神懸かり的な創作或いは結果を生み出す人はそこが違う。
好きになることへの恐怖と嫌悪感を克服するきっかけをどこかで手にしているのではないか。
そんなことを考えさせられました。
人の手で作る作画とAIの作画。
もしかしたら見た目の違いはないのかもしれません。
でもアニメファン達は、何かが違うのだという漠然とした気持ちを抱えています。
では、そもそもクリエイト行為とは何なのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
「何かを好きになるということそのものが幸せなのかもしれない。」
好きという気持ちを伝播する行為。
それがクリエイトなのかもしれない。
私はそう感じました。
好きという気持ちが宿ったクリエイトには光るものがある。
その光に気付き、共感した人間はファンになる。
つまり、ジャパニメーションとは、制作者と視聴者の共感を連鎖させるクリエイト行為が積み重なった結果なのだということです。
製作委員会方式における、出資者が求める効率的な制作の帰結は、売上。
だとすれば、それは、関わるすべての人の好きという気持ちを殺さないことが条件です。
例えば、そのアニメーターの矜持を支えるものが待遇ならば改善が必要だと考えます。
なぜなら、好きという気持ちを押し殺す要因や風潮を作った時から衰退が始まるからです。
人間とAIの共存させる境界線はそこにあると考えました。
あなたは、どう思いますか?
※ef – a tale of melodies. とは ※新海誠 とは ※抑制の効かない怪者 とは
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