「我々は自分の皮膚の中に捕らわれている。」
オーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインは、自分らしさについて考えさせられる言葉を残しています。
「私たちが感じる痛みや喜びは、自分の身体や脳の中でのみ生じるもの。外部の世界は私たちの認識に影響を与えない。」
人は自分の身体や意識の中だけで完結しているという意見があります。
私たちの感覚や認識は、自分の身体や脳の中でのみ形成されるのだと。
「私たちの感情や考えは、他者や環境との関わり合いから生まれる。自分だけの世界では完結しない。」
一方で、人は外部の世界と深く繋がっているという意見があります。
私たちの感覚や認識は、外部の世界との相互作用を通じて形成されるのだと。
人は自分の身体や意識という内的なものだけで自分らしくあることができるのか。
それとも他者や環境という外的なものと関わり合うことで自分らしくあることができるのか。
あなたはどう思いますか?
「私以外に存在するものは何一つ確信することができない。」
フランスの哲学者デカルトは、「私は全能の悪魔によってだまされているのではないか?」と疑いました。
彼にとって、自分以外の存在や外部の世界は疑わしいものであり、自分の身体や意識だけが確実なものでした。
それは唯我論と呼ばれるもので、自分の身体や意識の中だけで完結しているという考え方です。
加速すれば、自分以外の存在や外部の世界を無視、否定して、自分を孤立させたり独善的になったりする危険性があります。
「人間は孤立した存在ではなく、他者や世界と関わり合う存在者である。」
ドイツの哲学者ハイデガーにとって人間は、他者や世界から影響を受けて自己を形成し発達させる存在者でした。
この主張は、相互主体性と呼ばれるもので、人間は外部の世界と深く繋がっているという考え方です。
加速すれば、他者や環境に依存したり従属したりすることで、自分を失ったり侵害されたりする危険性があります。
ではここで、あなたにも考えて頂きたいことがあります。
我々は真の自分を知ることができるのでしょうか?
あなたはどう思いますか?
「汝自身を知れ。」
自分らしさとは何か。
それは、自己内部で完結するものでもなければ、外部に従属することで得られるものでもありません。
「人間は神の創造物であり、理性や自由意志を持ち、自己を発展させることができるのだ。」
14世紀から16世紀にかけて起きた、ルネサンス期の人文主義は唯我論的でした。
「他者や社会と関わり、共に活動を行うことで自己は守られ発展もできる。」
18世紀から19世紀にかけて起きた、産業革命期の社会運動は相互主体的でした。
そして20世紀初頭。
心理学者カール・ユングは、人の心の中には「集合的無意識」というものが存在すると主張しました。
これは、人類共通の記憶や経験がどこかに蓄積されているという考えです。
つまり、自分らしさとは、個人の経験だけでなく、人類の歴史や文化の影響を受けるということです。
私たちは、自分の身体や意識と他者や環境の間にある境界をどのように認識するべきなのか。
そして、どのように調整すべきなのでしょうか。
あなたは、自分らしさをどうやって掴みますか?
※ヴィトゲンシュタインの言葉を見る ※ハイデガー とは ※集合的無意識 とは
自分らしさとは××である。そう断言できる人がいたとして、その方はその”自分らしさ”をどのように図ったのでしょうか。
自分らしさをどう導くかから考えると、『”ほかの人と比べて”自分はこうである。よって…』という比較が少なからず入るのではないかと考えます。
そう考えると、自分らしさとは環境によって自分らしさとは定まるものなのかもしれません。
一方、比較に用いる事例は自らの意志や決定によって培われたとも考えられます。
そう考えると、自分らしさとは自らの内のみで定まるものなのかもしれません。
どの色を灰色と呼ぶのか。と同様に、そこには確かな線引きはなく、ある人は灰色と言い、ある人は白という、ある人は黒という。そういったグレーな話なのかと思うと、議論の盛り上がる楽しい思考かと感じました。
「比較に用いる事例は自らの意志や決定によって培われた。」
これが印象に残りました。
比較をする人の比較対象はどのような理由で、比較対象に選ばれたのでしょうか。
もしかしたらその間には、欲望や希望、不安や恐怖があるのかもしれませんね。