事例分析

【CASE21】ブランド疲弊から考える期待値調整の未来

今回は、「ブランド疲弊」の観点から、「期待値調整」の未来について考察していきます。


問題提起

現代のグローバル市場では、企業はブランド力の維持と発展に膨大なリソースを投入し、消費者の期待に応えるために奔走しています。
そしてブランドが強大であればあるほど、消費者の期待も高まり、それに応え続けることが企業の存在意義とされています。

しかし、果たしてその期待に応え続けることは可能なのでしょうか?
もしかしたら、そこには「ブランドそのものが疲労する」という現象があるのではないか。

もしブランドにも疲労や消耗という概念があった場合、それは企業の将来にどのような影響を与えるのか。
そして、この現象が社会全体に波及した場合、未来の私たちにどのような変化をもたらすのでしょうか。


背景考察

「ブランドが疲弊している。」
その意味は、ブランドが強大化し消費者の期待が無限に膨らむことで、企業がその期待に応え続けることが難しくなり、最終的にブランド自体が疲弊し崩壊へと向かう現象です。
言い換えればそれは、ある種の呪いのようなものとも言えるのではないかと思いました。

例えば、1980年代の航空業界は、航空事業とホテル事業との親和性を鑑みて、ホテル経営に乗り出した時代でした。
そしてJALやANAもホテル経営に参入した結果、「ホテル日航」「ANAインターコンチネンタル」などのブランドが築かれました。
しかし、これらのホテルの運営権はすでにJALやANAの手を離れています。

そう、つまりは徹底を余儀なくされてしまったということです。
では、何がそうさせたのでしょうか。

「非日常的な体験をしたいから、移動も宿泊も特別なのがいいわ。」
航空業界の高いブランド力やホスピタリティは、リピートの契機(きっかけ)に直結して、かつホテル事業でもシナジーが効く。
そう考えれば、そもそも海外旅行というプレミアムにプレミアムを重ねた多角的な事業展開が顧客を虜にするのは間違いないだろうと。

当時は航空業界の放漫経営が話題に挙がっていましたが、その背景には、顧客の期待値にどうプレミアム感を合わせるべきかが見えなかったのではないか。
つまりは、顧客が求めるホテルの品格について、航空業界は「要素は見えるがどう表現すべきかが見えなかった」のではないでしょうか。
だからこそ、放漫経営というのは、「金銭的なインパクトで顧客に価値を知らしめる」という意味で、社内に肯定派がいたのかもしれません。

日本の東京には、三大式場として名高い、八芳園、雅叙園、椿山荘があります。
それに例えるならば、結婚式場事業に特化して歴史を積み重ねた八芳園のブランド力に対して、ホテル事業も併せ持つ雅叙園・椿山荘がいかにして対抗してきたかという構図です。
江戸時代から400年以上続く壮大な庭園に曇りなく一点に特化して積み上げた歴史、品格、伝統を相手にするために、雅叙園・椿山荘はそれぞれとてつもない企業努力を重ねています。

つまり、航空業界は、事業シナジーを見てホテル経営に勝機を見出しましたが、高いブランド力を維持研磨して戦い続けるにはあまりにも過酷だったと。

現在、私たちはブランディング戦略を最も重要なマーケティング施策に位置付けています。
なぜなら、顧客のKDF(Key Desire Factor)を空想によって叶えることが出来る、唯一のKSF(Key Success Factor)だからです。
空想的であるからこそ、例えばある人はそれを「物語価値」と言い、またある人はそれを「希少価値」と言い換えるように様々な解釈を可能にしています。

ブランディング価値とは、無から有を生み出したかのような幻想的な価値でもあり、それは信仰によってのみ成立するという特徴を持っています。
それは、例えるならディズニーランドの魔法が園内で信仰しているから成立するのと同じようなものです。
つまり、幻想価値(ブランディング価値)とは、人が信じているから価値を保つことが出来ているということです。

そのため、もし一人また一人と信仰を手放されてしまった場合には、やがてそのブランディングの魔法は消え去ってしまいます。
だからそれを恐れる企業はブランディングに投資を惜しまず、また経営思想家の新たなブランディング戦略は常に注目の的となります。

例えば、「顧客接点を増やすこと(CRM:カスタマーリレーションマネジメント)」や「歴史を語ること(物語共感発信)」や「局地で一番を名乗ること(ランチェスター戦略)」という手法たち。
これらは幻想価値をいかに繋ぎ止めるか、そしてその光沢をいかに維持するかを目指して使われていると考えることが出来るでしょう。

「ブランドとは華やかな魔法でありながら、そこに頼れば次第に内に向けられた呪詛になる。」
つまり、それは、ブランドが成長し力を持つにつれて、それに反比例するように企業がそのブランドに支配されるようになり、最終的には企業がブランドによって滅ぼされるという現象です。
私はそれを「ブランドの呪い」という造語で表現しています。

ブランドの呪いは、実は長い歴史の中で繰り返し観測されてきた現象であり、古代の王朝や近代の帝国主義国家、或いは、古代の伝説や神話においても類似する現象が見られます。
そしてこの呪いは、ブランドの誕生から成長、成熟、そして衰退と崩壊へと至るまでの一連の過程で、社会や経済、さらには文化にまで影響を及ぼす可能性があると考えます。

例えば、古代ギリシャの神話。
そこには、無敵の英雄が自らの過信と運命の呪いによって滅びる話が数多くあります。
中でも、アキレウスはその強大な力ゆえに戦場で無敵を誇りましたが、最後は自らのかかとに宿る弱点を突かれて命を落とします。

それは、力とは支える支点があって初めて成立するものであり、だからこそその支点は「死点」になるのだということを教えてくれています。
ブランドも強大な力を持ちますが、信仰の数による幻想的な価値で築かれた砂上楼閣である以上、支点である「信仰」は死点になることが想起出来るでしょう。

また、エジプトのピラミッド建設には多様な解釈が存在しています。
中でも最も一般的に流布されている説は、王の権威性と還る場所を残すために築かれたというものです。

その意味で言えば、ファラオたちは自らの偉業を永遠に記憶させるためにピラミッドや神殿を築きましたが、その過度な自己顕示欲が最終的には彼らの王朝の滅亡を招いたとも考えられます。
ブランドもまた、幻想的な価値を永続させるために膨大な資源を投入し、消費者に対する影響力を強化し続けますが、その先に待ち受けているのが「ブランド疲労」なのかもしれません。

このような考察を踏まえた上で、企業が取り組むべきブランド戦略とは一体何なのでしょうか。
その一つの可能性として、「ブランドの秘匿化」という新たなコンセプトが考えられるかなと。

それは、耳目を集めてブランド力を強化することだけに着眼する時代に逆らって、あえて露出を控えることで消費者の期待値をコントロールするというアプローチです。
例えば、宮内庁御用達の逸品や皇室献上品は、露出を意図的に減らしてその希少性を高めることで、逆にブランド価値を維持することに成功しています。

「隠れたブランドとなって消費者に想像の余白を与えて新たな魅力と信仰を生み出すこと。」
それはまるで、古代の王が自らの神殿を密かに築き、余所者にはその存在を秘匿し、必要な時にのみ姿を現すことで神秘性を獲得するようなものです。
つまり、ブランドの呪いを回避するためには、ブランドの魔法が呪詛に変わる前に隠してしまうことなのかもしれません。

私たちは、すでに景気の良いシナジー効果の神話が絶対では無いことを知っています。
ブランディング戦略1つで逆シナジー効果が顕在化して、企業の信用が失墜する可能性があります。
つまり、ブランド疲労が引き起こす企業の崩壊というシナリオは、もはやフィクションではなく、現実の課題として私たちの前に立ちはだかっているということです。

そう考えていくと、これからの時代は誰が誰と幻想価値を作り、誰がその幻想価値を信仰して、どうやって幻想価値を繋いで行くべきなのでしょうか。
そして、人と人の距離感は近付いたけど心理的な壁が高くなった時代において、ブランディングとは、モノに心情を寄せることで人の壁を取り払う手段になるのかもしれないなと。

そんなことを考えました。


結論

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コメント

  1. 寺谷

    「ブランド」=「信仰によってのみ成立する」という文言に納得せざるを得ませんでした。
    同じTシャツでもブランドロゴがあるかどうかだけで人のリアクションがかなり変わるのはよくある話で、これらの価値観は宗教よりも広がりやすく「ブランド」の力は想像以上なのだと感じました。
    元々自分はブランド力は高い方が良いというイメージでしたが、秘匿することでコントロールする重要性も納得しましたが、企業にとってのブランドの秘匿は古代エジプトや宗教のように特定の神などの存在がない分難しそうだという印象を受けました。

  2. 古澤泰明

    ブランドは信用
    お金に似ていると思いました
    米ドルは際限なく刷っているのにそれに価値があると信じている人がたくさんいるから暴落しない
    米国の最大の産業は米ドルの印刷
    ブランドもそうなったらすごい
    でも、ブランド名のステッカーが売れるのだから名前(ロゴ)自体に価値があるのか。やはり似ていると思った。
    お金もブランドも幻想だと
    真のブランドは数量限定で確固たる信念が入っているものだと思う
    ゴールドのようなもの?
    ニクソンショックがあったけど米ドルはゴールドと交換が本当にできないのだろうか?きになります

  3. see

    前回の講義に出た「教養がないものを排除することが正義とされる社会は許されるべきか?」に対して、
    Noでありたいけど、現実的に考えるとYesで終わってしまったので考えてみました。

    教養とは、知識で留まるのではなく、深く理解し応用できることと理解しています。
    「教養を持たないものと共存する方法を生み出すこと」が教養とも言えると思うので、
    教養がある人がいれば排除が生まれない。

    また、教養を磨きたいと考えるきっかけは「好奇心」であり、
    それを動かされるきっかけは教養がある人からの恩恵だと実感しているので、
    教養ないものを排除した結末は、無秩序な世界になる。

    それは許容できないので、自分も教養を磨き、排除なき世界を目指したいものですね。

    ただ、それは「エンタメとしての受動的な刺激」ではなく、
    「能動的な刺激を生み出すもの」、ここは譲れないなと思いました。

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