事例分析

【CASE25】外国人労働者から考える多文化共生の未来

今回は、「外国人労働者」の観点から、「多文化共生」の未来について考察していきます。


問題提起

昨年、東京都品川区のビジネスホテル解体現場で発生した一連の騒動は、労働現場における異文化の衝突とそのリスク管理の限界を浮き彫りにしました。
結論を言えば、ずさんな工事現場を見兼ねた住民から苦情が寄せられ工事が中断、そして区は工事業者に停止命令を出す事態になりました。

しかしこの事件は、単なる「ずさん工事」ではなく、日本社会が直面する深刻な構造的問題を含んだものでした。

「最近は競争が激しく、この価格でないと請け負えなかった。」
新宿区のある不動産会社が、解体工事を埼玉県蕨市の中国系建設会社へ税込み1340万円で発注。
中国系建設会社は、東京都台東区の業者(トルコ系一人親方)へ450万円で下請けに出す。
するとトルコ系一人親方は、さらに川口市内で解体業を営むクルド人5人に仕事を発注した。

そう、この事件の背景には複雑な請負業者の多層構造と、外国人労働者を中心とする危険な作業環境がありました。

日本は少子高齢化に伴い、経済を支える生産年齢人口が激減している最中です。
実は、2050年には1950年と同じような人口水準になるとも予想されています。

これについて、100年周期で起きる人口増減にまつわる自然周期の法則と捉えるのか。
それとも築き上げた経済基盤を守るために足掻くのか。

後者を選ぶならば、労働力確保のために外国人労働者の力を借りるという選択肢も見据える必要が出てきます。
しかしその選択肢は、未来の私たちにどのような影響を与えていくのでしょうか。


背景考察

「バリアフリー社会はどこまで実現しているのだろうか?」
バリアフリー社会とは、障害や不自由さを感じることなく、多様な人が社会に参加できるよう、あらゆるバリアを取り除いた社会を指すものです。
諸説ありますが、バリアフリーという言葉が国際的に認知されたのは、1974年の国連障害者生活環境専門家会議で、報告書『バリアフリーデザイン』が作成されたことからだと言われています。

また、バリアには4種類あると言われています。
それぞれ、「物理的なバリア」「制度的なバリア」「文化情報面のバリア」「意識上のバリア」で4つです。
そしてバリアフリー社会とは、主に障害者(障碍者)や高齢者に対してやさしい社会という狭義の意味で捉えられていました。

しかし、時代の変化と共にその意味の範囲をアップデートしていく必要がありそうです。

「障碍者、高齢者に続き、外国人に対してもやさしい社会であるべきだ。」
そうなると、おもむろにこんなことを思い浮かべる方もいるかもしれません。
外国人が日本に来てくださっているのだから、おもてなしの心を通じて善き接待をするべきだと。

ふとここで思うことがあります。
なぜ、日本人が海外に行くと、「現地の言葉を話し、溶け込む努力をしろ!」と言われて申し訳ない気持ちになるのだろうか。
なぜ、外国人が日本に来ると、「外国人にも分かるように配慮して、馴染みやすい空気を作る努力をしろ!」と言われて仕方ないねという気持ちになるのだろうか。

これが観光大国日本としての、或いはおもてなしの美徳を持つ日本の宿命なのでしょうか?

少なくとも、私はその関係性が対等では無いと考えています。
だからこそ、バリア(障害)をフリー(取り除く)にすることは、同情を誘う物語や憐憫への罪悪感だけで判断しては行けないことだと思っています。

「言語バリアが生み出す問題は、単なる理解不足ではない。」
問題提起で挙げた事例は、異文化圏から来た労働者たちが「日本語がわからない‥」という壁に直面し、安全基準や作業手順の伝達が曖昧になっている事実があります。
言語の不理解は物理的な安全リスクを引き起こすだけでなく、労働者同士の信頼関係の喪失を招き、職務上の心理的安全性が失われることに繋がると想定出来ます。
また、言葉が分からなければ自ら営業も出来ず、その結果、労働者たちは仲間内の案件を断れない状態が生まれてしまう。

まるで、身分証明書を担保に脅されて断れなくなる闇バイトのようです。
そんな状況が外国人コミュニティの中でも生まれているのだとすれば、不安やストレスに押し潰され、リスクの認識が曖昧になり、最終的には事故が起きるのは当然の帰結と言えます。

「いや、そもそも日本語が分からないなら、日本で出稼ぎするなよ!!」
異なる文化や背景を持つ労働者たちは、どのようにして労働環境に順応しているのか、あるいは順応できないのか。
つまり、国民の気持ちとは裏腹に、外国人労働者が日本社会の労働市場にどのように浸透しているのかという大きな社会的構造があります。

特にクルド人をはじめとする少数民族が、労働市場で過小評価され、低賃金かつ危険な労働環境に追いやられる現状。
それは、社会の中で暗黙のうちに許容されている不公正な構造を映し出していると考えることも出来るでしょう。

「ある夫婦が苦しい金銭事情の中でも、生き抜くためにいつか夢を叶えるために、信念を持ち続けて苦境を乗り越えようとする姿を描いた歌がある。」
ところで、ミュージックビデオ撮影中だったアメリカロックバンドのボン・ジョヴィが、橋から飛び降りようとした女性を説得して助けたというニュースがありました。
実は、ボン・ジョヴィさんは本国ではヒットに恵まれず、日本で逆輸入という形で世界的なロックバンドになったという経緯を持つ方です。

「やるしかない。まだ道の途中だ。力を合わせれば絶対に上手くいく。私たちはここで、祈りながら生きている。」
そのきっかけの1つが『Livin’ on a Prayer』という曲でした。
当時1987年と言えば、バブル景気で日本が活気に満ちていた時期ですが、もしかしたらこの曲は1億総中流とも言われた国民の切実な想いを代弁していたのかもしれません。

約40年前の曲ですが、商業的な成功を超えて世間に影響を与える曲として、未だにアメリカでも大切な時、お祝いの時、節目の時には家庭で歌われる馴染みのある曲だといいます。
例えば、黒人男性が電車や公園で歌う動画が世界中で拡散され、コロナ禍の際にはシカゴのアパートの窓から住民たちがこの曲を合唱したことも報道されました。

このように、音楽に共感して、心情を同調させることで国を超えた連帯感が生まれる事例もあります。
しかし、当然そこには歌詞を知るという言語理解が求められています。
また、祈りに対する共通理解があってこそ通ずるものがあります。

そう、つまり、出稼ぎで来た外国人たちが陥っている「ニホンゴワカラナイ」状態は、文化や歴史の重みや敬意を払う以前の状態であるということです。

そしてここで最も重要なことは、この言語の不理解が、労働現場に限らず社会全体の秩序をも揺るがし始めているという点です。
例えば、クルド人で話題の埼玉県では、外国人労働者がコミュニケーションの欠如から法律やルールを無視し、警察や自治体の手に負えない状況が広がりつつあると。
もっと言えば、警察の人員不足や言語的な障壁が、犯罪の取り締まりを困難にし、不法行為が事実上見過ごされていると。

この現象は、地域住民に対して深刻な不安をもたらし、外国人労働者への偏見や敵意が増幅することに繋がるため、社会的な信頼関係が壊れていく兆しと言えるでしょう。

「社会の不安定化がひとたび秩序を壊せば、次に法が形骸化して、やがて統治なき空間が生み出される。」
この言語バリアによる「無法地帯化」は、フランスの哲学者アーネスト・ゲルナーが提唱した「文化的ナショナリズム」の逆説的な現象を想起させます。
ゲルナーによれば、文化的な均質性がナショナル・アイデンティティを支える根幹であり、その反対に、異文化が無秩序に増加し、相互理解が欠如することで、社会は不安定化していくのだと。

そして、政府の対応がこの問題をさらに悪化させています。

「ニホンはもっと思いやりのある国だと思ったのに‥、ニホンジンも冷たいし悲しい。」
悪いことをして問い詰めれば、同情を誘って周囲の環境(日本社会そのもの)がそうさせたのだと思わせて、無罪放免で逃げ切る道を探そうとする。
それに対して、仮放免者や不法滞在者を適宜監視するリソースが追いつかないため、外国人労働者による影の労働市場が急速に拡大していくと。

例えば、出入国在留管理庁のまとめでは、昨年職場からいなくなった技能実習生は9753人で、一昨年より747人増えて過去最多を記録しています。
これは技能実習生全体のおよそ50人に1人の割合であり、国別に見るとベトナムが最も多く5481人、ミャンマーが1765人、中国が816人、カンボジアが694人とされています。
もちろん技能実習生の労働環境がそうさせたという側面もあるかもしれませんので一概に誰が悪いという話を追求するのは難しいです。

しかし、現実的には失踪者たちは日本国内のどこかに四散して潜んで、外国人コミュニティで斡旋された仕事をするのか、NPOで保護されているのか。
いずれにせよ何かしらで生計を立てているというわけです。

「異文化の交差点は、出口のない迷路に通じているのかもしれない。」
一人ひとりの立場に立てば、来てしまったからには言語や文化の違いというバリアにぶつかりながらも、日本で仕事を続けなければなりません。
仕事があろうが無かろうが、強制送還されない限り、日本国の中で生計を立てる必要があります。

その結果、法を犯す者や不幸な境遇を知らしめる者、日頃の鬱憤を晴らすために威嚇的になる者が現れていると。

例えば今回の事例は、いかに外国人労働者コミュニティが劣悪かつ弱肉強食な状態なのかを示すものです。
なぜなら、そもそも解体業は請負額が500万円未満の場合、都道府県への登録だけで開業が出来ます。
そこで、今回の請負額450万円はその基準に合わせて中国系企業がトルコ系一人親方に依頼した可能性があります。

そしてトルコ系一人親方からクルド人に振られた時、個別の雇用計画を結ばず外部発注先として現金払いがされていたと。
言ってしまえば、給与でなく外注費とすることで、所得税の源泉徴収や社会保険、労災に入る必要がなくなるため、相場より安い価格で掴まされた案件だということです。

こうした状態が続けば合法的な労働市場との競争が激化し、違法行為が蔓延することにより、日本の社会保障制度や税制は、次第に機能不全に陥るリスクが高まる可能性があります。

「法の支配が失われると、権力の空白が生じ、その空白を埋めるために、新たな支配構造が形成されることになる。」
政治学的には、これこそが「無法地帯化」の典型的なシナリオと言えます。
例えばドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「合法的支配」の概念に基づくと、法的な正当性が弱まることで、国家の支配力が失われ、社会全体が無秩序に陥ると。
つまりこの場合、影の労働市場が拡大し、そこに経済的利益を見出す不法勢力が支配的な役割を果たすようになっていくのだと。

「そこには、善意がもたらす矛盾が潜んでいる。」
ではこの状況をどうすればいいかと考えた時に、あなたならどうしますか。
声を挙げて政治に期待することも大切ですが、活動的な人たちは外国人労働者や不法滞在者を支援するNPOで実際にセーフティネットを形成しようと動いています。

それは、手放しに称賛されるべき素晴らしい活動ですが、しかしここにも大きな闇があります。

真っ当に安全な生活を提供するという名目で寄付金や支援金で活動を行っている方がいる一方で、税金や社会保障制度を悪用して搾取ビジネスを展開しようとする者がいるのです。
そして外国人労働者の中には、NPOの支援を受けながら正当な社会保障や税金の負担を回避し、日本社会のリソースを不正に利用しようとするフリーライダーが一定数存在する。

日本社会は、外国人労働者や不法滞在者に対して多様性と寛容さをもって応じようとしますが、その背後には、善意が社会を蝕む危険性が潜んでいると。
つまり、それは、善意を起点にした支援活動が伏魔殿になり始めているということです。
この問題は「善意の悪用」(造語)によって、制度的な崩壊が始まりつつある兆候を示していると言えるでしょう。

支援活動がいつの間にか「制度的悪用」に変質していく過程は、ドイツの社会学者ロベルト・ミヒェルスの「寡頭制の鉄則」に類似しています。
つまり、どれほど民主的で善意に基づく運動であろうとも、それが一定の規模に成長し組織化されると、権力の集中が起こり腐敗して、最終的には初期の理想から逸脱すると。
NPOの不正行為もまた、同様に「善意の腐敗」と言えるものであり、日本社会が直面する制度的なリスクを露呈していると考えられるでしょう。

まとめていきますと、そもそも多層請負構造は複雑化すると、責任の所在が不明瞭になり、労働者たちは自らの行動に対する責任感を失うものです。
だからこそ、下請けの業者達は少しでも委託順位を上げるか元請けになるために、自社営業或いは営業代行を活用して攻めの姿勢を崩さないものです。

しかし各種のバリアがそれを阻害していると。
その意味ではバリアフリー社会はアップデートしていくべきですが、そこは慎重に検討するべきです。

想定される無法地帯化は、文化的衝突と政治的無策が絡み合った結果であり、日本社会にとって深刻な脅威をもたらす可能性があります。
例えば、もしも外国人労働者が主導する「影の経済圏」に外国人投資家が手を出せば、日本の伝統的な文化や価値観は侵食されていくでしょう。
またこの侵食は、地域住民と外国人労働者の間に深刻な対立を生むだけでなく、法の適用が不可能な「法外の空間」を増やすことで、日本社会の基盤が揺らぐと考えられます。

すると、我々はここで一つの大きな問いに立ち返ることになります。
「善意は、どこまで許容されるべきか?」そして「多文化主義は、どのようにして社会的秩序と調和するべきか?」と。

未来の日本社会を見据えると、異文化の交差点としての労働現場は、さらに複雑化することが予想されます。
多様性の尊重は重要ですが、それが無秩序な状態を生むリスクも無視出来るものではありません。
最終的には、日本社会が異文化をどのように受け入れるか、そしてその過程で発生する矛盾をどのように解消するべきかが問われているなと。

そんなことを考えさせられました。


結論

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コメント

  1. 星屑のかけら

    みんなの前提が違う為にルールを作らなければならない。
    抜け穴があるからルールを更新しなければならない。
    ずーっと終わらないイタチごっこをしている気がします。

    誰かにとっての悪は、誰かにとっての正義ですし。
    ムラや日本というクニの内だったから成り立っていたのもがグローバル化によって壊れたのだと思います。

    どれだけ翻訳機が発達しても、
    相手の文化や心情を踏まえての翻訳はできないと思います。
    国内の労働人口が足りたくなると予想されている今、企業は
    最低限守るべきものの明文化
    これがあればその会社(その会社の一員)だと言えるコア
    の2つが求められると感じました

  2. 古澤 泰明

    外国人労働者を受け入れる時に一番考えなくてはならないことは我々と「共生」していくことだと私は考えます。人が機械を管理することは簡単だ、人が人を管理するから難しいと私の経営学の恩師が話ていましたが、外国人労働者を単純に人がいないから、賃金を安くしたいから、という考えで受け入れている限り様々な軋轢を生み出し、お互いが不幸になるだけでしょう
    外国の人を受け入れ、仕事をしてもらうのですが、その人がどのように生活をしていくのか?また仕事を通じてどういった将来を描いているのか?など日本人同様にキャリアコンサルティングをするくらいでないと(やっているキチンとしたところもあるとは思いますが)共生は難しいでしょう。
    これは企業だけの問題ではなく、種々のサービスを提供してもらう我々に関わる問題でもあります。まずは外国人増えてるけど自分には関係ないね、ではなくこれからの未来を外国人の方々とどう共生していくのかを私達も考えなければならないと考えています

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