事例分析

【CASE9】永代型デジタル墓からみた考察

今回は、新しいお墓参りの形としてサービス展開されている「永代型デジタル墓」について考察していきます。


問題提起

お墓に永久QRコードを追加されて、先祖の歴史を永久に保存して閲覧することが出来るサービスが誕生しています。
永久QRコード(特許申請済)とは、QRコードにブロックチェーン上ストレージを組み合わせることで、サーバーやURLに依存せず、メンテナンス不要で情報を永久保存するというもの。
これにより体験型のお墓参りが可能になり、震災や災害でも先祖の情報が消えることがなく、さらに維持費用も抑えることが出来るといいます。

他にも続々とお墓にまつわる問題とその解決策が生み出されていくことでしょう。
そうした中で、今後私たちにどのような変化が訪れようとしているのでしょうか。

その背景に迫ります。


背景考察

少子高齢化に突入する日本。

これから迎える多死社会において、生者と死者の関係性はどう変わっていくのでしょうか。

多死社会といえば、例えば14世紀、ペスト(黒死病)の時代が想起されます。
その病原菌は、当時の世界人口の1/4の命を奪い去りました。

次々と隣人が亡くなる姿を目撃し、生と死が肉薄した世界を目の当たりにした人類の間では、メメント・モリ(死を想え)という言葉が流行したと言います。

「避けることのできない死という未来があるからこそ今この瞬間を大切に生きることができるのだ。」
現代でも、スティーブ・ジョブズがメメント・モリを示唆する言葉を残していますので、もしかしたら耳慣れた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

その由来を辿ると、古代ローマで「将軍が凱旋式のパレードを行った際に使われた」と伝えられています。
それは、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるか分からない。」という戒めを思い起こさせるために、控える使用人が「メメント・モリ」と囁いていたのだというものです。

「弱い人間が死に方を選べないのと同じように、お金がなければ先祖を弔うこともできない。」
家族の縮小、分散化、単独世帯の増加、市場経済の低迷、このような状態の中で先祖代々が眠る墓を維持できるのかどうか。

日本は今、大きな難題に直面しています。
ヒューマニズム視点で効率化・合理化・最適化を目指した社会を築いた結果ですが、もし本当に人類が資本主義の精神そのままに加速を続けたならば何が起きるのでしょうか。

「故人の魂に触れると何が得するのですか?」

死者を弔うためにわざわざ「ヒト・モノ・カネ・ジカン・クウカン」という資源を捧げることに何の意味があるのかを問う時代が来るでしょう。
なぜなら、死者と対話するのにも資源が必要だからです。

アカデミー賞を受賞したピクサーの『リメンバー・ミー』は、メキシコの祝祭「死者の日」をテーマにした映画であり、人がいつ死ぬのかを描き出した作品です。
その監督のインタビューには、興味深いメキシコ由来の口伝があります。

「人間には“三つの死”がある、という考えを聞いた。一度目は心臓が止まった時、二度目は埋葬や火葬をされた時、三度目は人々がその人のことを忘れてしまった時だ。僕の心が最も痛んだのは、三度目の“最終的な死”だった。

生きている人たちの中に、自分のことを覚えている人がもう誰も残っていない時、人は永遠に死ぬんだ。それは本当だ。僕たちには皆、もう知らない遠い昔にさかのぼる親戚たちがいる。彼らはある意味、失われ、忘れ去られている。」

「人は忘れられた時に死ぬ。」
尾田栄一郎『ワンピース』の中に登場するドクターヒルルクという医者も語っていました。

根本的に言えば、私たちは亡くなった人たちの記憶を遡ることで初めて巡り合うことが可能となります。
つまりその行為自体に注目すれば、お墓の前で手を合わせるという行為は記憶を呼び覚ます行為とも言えるでしょう。

 

ちなみにダンバー数という、親密な人間関係を維持できる上限は150人だとする考え方があります。
そこから、150人以上の人間が(つまりダンバー数を超えて)結束するために宗教が必要だったのだという解釈も生まれました。

しかしそこで疑問に思うのが、すべての宗教には、なぜ「形而上的な邂逅」が盛り込まれているのかという点です。
右脳と左脳の密接な結び付き、或いはシャーマンによるトランス状態の伝播と、あらゆる手を尽くして神(或いは冥府)の声を聞こうとしています。
それは先祖たちの去来から来るものなのか、それとも自我やエゴを超えた何か特別な理由に基づくものなのか。

例えば、埋葬という文化に習えば、紀元前のネアンデルタール人の時代にまで遡ることが出来ます。
しかし、なぜ最古の人類たちは死者を弔うという発想をしたのでしょうか。

それこそ誰かに教えられたのか、それとも自発的に行ったのか。

そしてエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵、日本の仁徳天皇陵古墳。
それらは、歴史上の有力者が権威を示すために造ったとされており、世界三大墳墓と評されています。

なぜこれほどまでに労力をかけて荘厳に盛大に弔いをしたのか。
そもそもなぜ人類は墓を作ろうと思ったのか、

例えば、神秘の象徴とも呼ばれる動物、ゾウ。
この世界は巨大な半球である。その下では、巨大な3匹の象が地球を支え、それを巨大なカメが支えている。
一番下ではとぐろを巻いた巨大なヘビがいて、世界のすべてを支えている。

インドでは、須彌山(しゅみせん)説という、仏教宇宙観のモチーフとしても扱われた動物です。

またゾウには、「象の墓場」という伝説もあります。
それは、ゾウは死期を感じると、群れを自ら離れ、「象の墓場」と呼ばれる場所へ向かうのだと。

そして、たくさんの象の骨や牙が散乱する象の墓場に横たわり、静かに死を迎えるというものです。

もちろん伝説には諸説あるため今となっては真実とは言い難いような伝承も存在しています。
しかし、だとするならば墓を作る動物が存在しない理由はなぜなのでしょうか(※私のリサーチ不足なのかもしれませんが‥)

知能指数が高ければ墓を作るとでも言うのでしょうか。
そのすべてが忘れないためという動機なのでしょうか?

では、なぜそこまでして生者と死者を繋げる必要があったのか?

その謎は、歴史の文脈を調べても満場一致の答えには繋がりません。
なぜなら歴史とは、行為の足跡を追うものであって、動機についてはあくまで推測の域を出ないからです。

お墓の形態が変わることで何が変わるのか。
死者のデジタル化は私たちにどのような変化をもたらすのか。

もしも供養や埋葬という行為の目的が忘れないことなのだとすれば、パーソナルのデータ化は非常に理に適ったものと考えられます。
そしてそれは、人類が装飾する時代を終えて、埋め込む時代が来るという証でもあります。

また、もしも死んだ人間を忘れないために言葉が生まれたのだとすれば。
話した内容を文字で再現するというのは分かりやすいのですが、文字には文字以上の機能があってもいいのではないか。

例えば表意文字のような概念がデジタル進化と共に発展した時、望郷や忘却の概念が変わり、私たちの認識論に変化が生まれるのかもしれません。
つまり、それは、祈りを捧げるという行為に過去と未来の違いは存在するのかという問いに答えるようなものです。

時間の概念とは、実は過去現在未来ではなく同一線上に理解できるものなのかもしれない。
祈りとは間(例えば時間や空間)を想起して身近にするための行為なのではないかと。

そんなことを考えさせられました。


結論

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