今回は、「反日感情」の観点から、自己を定義する「アイデンティティ」の未来について考察していきます。
問題提起
2023年、中国のSNSに公開されたある動画が広く拡散された。動画には上海の小学校の校庭らしき場所に100人以上の日本人の子供たちが集まっている様子が映し出されている。
リーダー格の2人が何かを叫ぶと、その言葉が次のように中国語字幕に翻訳される。
「上海は私たちのもの。もうすぐ、私たちは中国全土を手に入れる」
第二次世界大戦中に日本軍に占領された歴史を持つ中国の人々は、この言葉に憤りと危機感を覚えた。
だが実際には、この動画は日本の小学校で撮影されたもので、子供たちは中国に対するヘイトスピーチを発したわけではなく、運動会の選手宣誓をしていただけだった。
再生回数が1000万回を上回ってから、件の動画はようやく削除された。
―クーリエ・ジャポンー
「あなたは、どのように日本と中国の歴史を理解していますか?」
そう問われた時、多くの人々は教科書やメディアを通じた知識を基に答えると思われます。
教育と歴史認識に潜む無意識の影響。
反日感情は、単なる国民感情の一つとして片付けられるにはあまりにも根深く、そしてその発露は日常の一部として存在しています。
特に教育現場での歴史認識の植え付けは、中国において反日感情を形作る主要な要因の一つであり、個人の価値観形成に多大な影響を与え続けています。
「歴史は解釈であり、その解釈は個人のアイデンティティ形成に大きな影響を与えている。」
教育を受ける過程で徐々に浸透する歴史認識は、例えるなら「毒を含んだ井戸水」のようなものです。
意図せず知らぬ間に飲み込んでしまう毒のように、一度口にすれば着実に個人の心を蝕んでいきます。
そしてその毒に侵されると、自らが信じている「事実」への疑念を抱くことは難しくなり、それが他者への憎悪や不信感へと繋がっていくと。
反日感情は現代中国社会においてどのように形成されているのか。
また、その根底にある「教育」と「愛国心」の関係性とは何か。
そしてそれは、未来の私たちにどのような影響を与えていくのでしょうか。
背景考察
日本人学校を「悪者」にする動画が人気を集める。
激しい反日感情は、中国に数十校ある日本人学校にも向けられている。
本誌エコノミストがおこなった調査によると、2021年後半から2024年9月までに、中国で人気のショート動画アプリ「抖音(ドウイン)」に日本人学校に関する数百もの動画が投稿されていた。
10万回以上再生されたある動画では、日本人学校を「文化侵略」の一部と呼んでいた。「日本人学校がスパイを養成している」というデマを広めている動画もあった。
本誌で分析したところ、日本人学校を非難する動画は、それ以外の動画の2倍の「いいね」を集めていた。
―クーリエ・ジャポンー
「社会の絆を繋ぐ儀式か、それとも活力を生み出す刺激か。」
なぜ中国は、ディープフェイクを用いてまで徹頭徹尾、今日まで反日感情を煽ろうとするのでしょうか。
その理由の1つに、社会的な絆を強化するための儀式として必要とされているという説があります。
つまり、愛国心の名の下に、外敵を仮想的に設定し、その存在に対する反感を共有することで、国家内部の結束を図っているのだと。
この視点に立つと、反日感情とは一種の社会的な「儀式的なペルソナ」(造語)であると。
個人が自らの位置を確認し合うプロセスの一部として機能していると考えることが出来るでしょう。
或いは、歴史的なトラウマを呼び起こすことで危機感という活力を発生させるためではないかという説もあります。
それは、中国の歴史には戦争や侵略、圧迫の記憶が深く刻まれており、それが心情の根底にトラウマとして存在しているのではないかという考え方です。
つまり、反日感情はトラウマを呼び起こす刺激であり、個々の心に新たな傷を刻み生存本能を思い出させるのだと。
結果的に、反日感情は愛国心を生み出すが、その愛国心は心の中にある痛みであり、痛みを和らげるために国民は共通の敵とヘイトに共感する。
その共感作用が、国家の結束を強化するという現象を生み出していると考えられるでしょう。
「愛国者の自分と国際市民としての自分、どちらが本当の自分なのか時々分からなくなる。」
しかしながら、反日感情の誘発施策が行われる一方で、グローバル化する世界の中で自らの立ち位置に疑問を感じている個人は少なくありません。
「愛国者としての自分 vs 国際市民としての自分」という葛藤は、現代中国の多くの若者が直面している課題です。
例えば、SNS上では反日的な意見を表明し、愛国心を示す一方で、現実の場では日本人と友好的に接するという二重の態度が存在します。
或いは、中華思想に基づき自国の商品が世界一だとする一方で、実はこっそりと他国の商品を購入していると。
こうした二面性は「ダブルバインド」と表現されることもあり、個々の価値観をその時々で都合よく切り替えることに対して葛藤が生まれています。
また、学校で教えられた歴史と、実際に見聞きする現代の日本人との違いに戸惑い、どちらを信じるべきか悩む若者も増えています。
この「歴史教育への不信感」は、反日感情が単なる感情的な反発ではなく、個々のアイデンティティに深く根ざした問題であると言えるでしょう。
こうした個人の葛藤は、反日感情が単なる国家政策の一部ではなく、個々の価値観や人生に直接的な影響を与えていることを物語っています。
「表現の自由とヘイトスピーチ規制の狭間が分からなくなっている。」
富士急行線の車両内でアメリカ在住ダンサーが迷惑なダンスを踊った動画がSNSなどで拡散されて、会社は警察に通報し法的装置も検討するという事態がありました。
その際に話題となったのは、「日本人の批判はヘイトスピーチに値する!」という外国人の意見です。
そう、日本人にとって電車内の迷惑ダンスは非難されるべき行為なのですが、外国人にとっては「何が悪いのか分からない。」という状態だったのです。
所を変えれば、当然反日的な発言も、「表現の自由に守られるべきだ」という主張がある一方で、「ヘイトスピーチとして規制されるべきではないか」という意見も存在しています。
国際社会が求める寛容な教育と、国内で行われている管窺(かんき)な教育が正面から対立する中で、どちらの価値観が優先されるべきなのでしょうか。
今、表現の自由とヘイトスピーチ規制の間には大きな問題が生じていることは明らかだと言えるでしょう。
では、教育で植え付けられた価値観は、なぜ長く個人の中に堆積していくのでしょうか。
ここで、ある寓話をご紹介させて頂きます。
その村では、古くから伝わる「呪われた森」の伝説がありました。
村人たちはその森に近づくことを禁じられ、子供たちにも恐ろしい物語として語り継がれてきました。
しかし、ある若者がその森に足を踏み入れると、そこには美しい自然と豊かな資源が広がっていたのです。
彼は村に戻り、その事実を伝えましたが、誰も信じようとしませんでした。
村人たちは長年の信仰と恐怖心から抜け出せず、真実を受け入れることができなかったのです。
この寓話は、反日感情が世代を越えてどのように心の中に維持されていくのかを象徴的に表しています。
例えば、フランスの社会学者モーリス・ハルブワックスは「集合的記憶」を提唱しました。
それは、社会集団が共有する過去の出来事や認識を指し、個人の記憶やアイデンティティ形成に大きな影響を与えるというものです。
そして、社会集団が共有する記憶は、個人の記憶を支配し、その認識を固定化する力を持つのだと。
つまり村人たちは、コミュニティ内で脈々と受け継がれてきた集合的記憶によって、新たな真実を受け入れることが出来なかったということです。
言い換えれば、反日感情はこの集合的記憶によって強化され、個人の認識を超えて社会全体の認識として固定化されているのだと読み解くことが出来るでしょう。
「個人の経験と社会構造を結びつける想像力こそが、社会問題の本質を理解する鍵なのだ。」
では、集合的記憶によって固定化されてしまった村人はどうすれば若者の声に耳を傾けることが出来るのでしょうか。
これについて、アメリカの社会学者ライト・ミルズは、何らかの状況によって固定化されてしまった認識を打破するためには、個々人の「想像力の社会学」が必要だと提唱しています。
つまり、もし反日感情を抑制させたいと願う人がいれば、集合的記憶を疑い自らの経験や情報を基に再評価する機会を提供するべきだということです。
その結果、「愛国者としての自分」と「国際市民としての自分」の葛藤を乗り越え、新たなアイデンティティを築けるのだと。
とはいえ、反日感情が一度集合的記憶として定着すると、それを打破するのは容易ではありません。
「個人は自己の物語を再評価し、再構築することで、社会の中での位置づけを能動的に選択する。真に自由な意思と判断力はこのプロセスから生まれる。」
そのため、個人がそのような葛藤に直面する際に「自己アイデンティティの再帰的プロジェクト」を国や社会が承認することが重要になるでしょう。
それは、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズが述べたもので、個人は過去の記憶や国家の物語に縛らずに、経験や社会的状況に応じて再構築されるべきだというものです。
つまり、愛国心や歴史認識もまた時代の流れの中で個人の中で再編成されるべきあり、それが出来ない状態は自由を侵害しているということです。
先ほどご紹介した寓話「呪われた森」で言い換えるならば。
森の真実を知った若者は、村人たちの固定観念を変えられませんでしたが、その勇気ある行動は潜在的に他の若者たちにも影響を与える可能性を持っています。
個人の行動が別の誰かに波及すれば、いずれは「バタフライ効果」のように、小さな変化が大きな結果をもたらします。
その結果が、もしも再帰的プロジェクトによって個人が再構築されていくという結果であれば。
やがて若者がもたらした真実によって村全体は変わっていくことでしょう。
中国人の反日感情をただ批判することは誰でも出来ますが、状況が好転することはありません。
ここで大切なのは、その愛国心の背後に潜む個人と社会の葛藤を理解することです。
国家がいかに強大であろうとも、個人がその物語に囚われる必要は本来ありません。
私たち一人ひとりが、葛藤を理解した上でどのような立ち位置で接するのかという選択に委ねられているのかなと。
そんなことを考えさせられました。
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