問題提起
クラシック・ラグジュアリーは、いわばこれまでの富裕層を指します。
免税店でブランド品を大量に購入するような層である一方で、欧米の観光客に多いモダン・ラグジュアリー層は、1ヵ所に長期間滞在する傾向にあります。
年齢層も30〜40代と比較的若い世代が多い。
クラシック・ラグジュアリーに比べて環境意識が高く、日本文化に興味がある人も多い。
日本の観光とも相性の良い層だと思います。
このようなモダン・ラグジュアリー層が主にどこにいるのか。
JNTO(日本政府観光局)のリサーチをみると、米国、英国、ドイツ、フランス、オーストラリアあたりの国々が並んだ。
―クーリエ・ジャポンー
「日本文化は内なる価値観と外向きのブランドとして両立可能なのだろうか?」
クールジャパン政策が掲げる「日本文化の再発見と輸出」は、国際社会における日本の地位を再構築し、経済の活性化に寄与することを狙っています。
それによって、多くの国々で禅の思想や金継ぎの美学が「新しいラグジュアリー」として受け入れられ、さらには「見せない美学」にも高い評価が集まっている。
そう、欧米では日本の静寂な庭園や茶道の精神が、物質主義へのアンチテーゼとして注目を集めているのです。
「文化の「外向きの顔」と「内なる価値観」のギャップはどのように調整すべきなのだろうか?」
しかし、ここで深刻な問題が浮上しています。
それは、日本の伝統工芸や精神文化が商業化されることは、真の文化的価値を損なう恐れがあるという点です。
クールジャパン政策によって強化される「魅せる日本」は、果たして本来の姿なのか。
それとも国際市場の要求に応えた作り物の像なのか。
日本文化の商業的拡張は、未来の私たちにどのような影響を与えていくのでしょうか。
背景考察
等身大の日本の生活文化が海外からリスペクトされる時代になってきています。
ですから、無理に取り繕わなくても、いまある自分たちの暮らしや自分たちが有するものにもっと誇りを持とうと、伝えていきたいです。
ここには日本人の「言わなさすぎる」という問題もあると思いますね。
海外のラグジュアリー・ブランドの人たちとのディスカッションで「なぜ日本ではラグジュアリー産業が欧米ほど成熟しないと思いますか」と尋ねたところ、
「もっと自信を持って自分たちのことを押し出していくべき」と言われたことがあります。
確かに、日本には「語らない美学」もあります。
ですが、海外の人に伝えるとなると、その奥ゆかしさが障壁になっているのも事実です。
海外の人がこれだけ関心を持ってくれていることを知れば、
自信を持って日本のあり方を押し出していくべきだということはわかりますし、その認知を変えていきたいとも考えています。
―クーリエ・ジャポンー
「見せない、語らない、触れさせない。」
日本文化、それは、「語らずして語る」美学です。
例えば、日本庭園は、自然の循環と静寂を表現する場所です。
その静かな佇まいは、訪れる者に余白と静寂を通して語りかけます。
石と苔の織りなす光景、木漏れ日の斑紋、そして水面に広がる微かな波紋。
そのすべてが言葉なくして心に静かな反響を呼び起こすものです。
まさにそれは、何も足さず、ただそこに「在る」ことの美しさを表現していると言えるでしょう。
この「在るがままの美」は、禅の思想に深く根差し、庭園という形で見る者に精神的な安らぎを提供しています。
しかし、皮肉なことに世界が日本庭園の美を称賛すればするほど、そこには「商業化」の波が押し寄せます。
例えば、日本庭園が持つ時を止めたような美は、現代の観光客を惹きつけて止みません。
しかし残念なことに、庭園に足を踏み入れた瞬間、彼らが持ち込む喧騒が「静寂の価値」を崩してしまいます。
また、訪問客の増加によって、庭園の手入れが忙殺され、四季の移り変わりとともに変わる美しさは、やがてスケジュール化された管理へと変わり果てていきます。
そして、庭園の一つひとつが「商品化(コモディティ化)」されることで、内に秘めた静寂が観光の喧騒に呑み込まれていく。
「見えない、聞けない、触れない。」
その制約がお金と交換出来るようになっていけば行くほど、その秘匿性は複製技術によってやがて失われていく。
例えば、テラリウムは文化財をコンパクトに再編集して圧縮させた商業的な創造物です。
このように庭園の守り手たちが、観光需要と自然の調和の間で苦悩する様は、まさに日本文化の変化と保存の葛藤を象徴していると言えるでしょう。
そしてこれは日本庭園だけではなく、様々な文化財で起きている現象です。
「金継ぎとは、壊れたものを「美しきもの」として捉え直す美学である。」
例えば、金継ぎの美学にも、現代の消費社会の影が差し始めています。
その「破損を補い、再生する。」という日本の伝統的な価値観は、いわば「再生の美」を象徴するものであり、自己の欠如を受け入れ、再構築する哲学そのものです。
しかし、消費社会はこの金継ぎの精神を「商品」として扱い、欠けた部分が美であると教える日本の哲学を表面的なラグジュアリーとして消費するようになりました。
その結果、金継ぎの精神は「デザイン」の一部に過ぎないとの誤解が生じ、本来の深い精神性が置き去りにされる危機に瀕しています。
そして、この金継ぎの技術が商品として海外に拡散されて人気を博した結果、何が起きたのか。
そう、日本の工芸職人たちは、国際市場での競争と価値の変質に悩むことになったのです。
つまり、古き良き伝統が消費文化に求められれば求められるほど、職人たちは物質的にも精神的にも変容を迫られることになりました。
「日本独自の美意識とは、「感じるより他ないもの」を体現するということだ。」
日本の美学、それは、事物を顕示せず内面的な豊かさに重きを置くこと、表面ではなく奥深くに潜む価値を尊重する姿勢にある。
私はそれらを総称して、不足の美学(造語)と捉えています。
しかし、SNSが支配する現代では、この美学もまた「ブランド化」されていきます。
そして内面に宿る美であったとしても、外向きの表現に変えざるを得ない状況に追いやられます。
しかし、もしかしたら、日本文化が内包する「不足の美学」には、この閉塞感を乗り越える可能性が秘められています。
つまり、それは、「ノイズ化する世界」に対する一種の反発として、情報過多や視覚的消費の中で、むしろ「沈黙」や「空白」こそが新しい豊かさをもたらすという逆説的な価値観です。
「SNSや検索サイト=インターネットのような錯覚を得やすいが、まだ生まれて30年であることを忘れてはいけない。」
物質的な豊かさに依存せず、欠如や欠陥そのものに美を見出す思想。
それは、欧米の消費主義に対するアンチテーゼとして評価されると共に、日本独自の「去来する浮遊感」を連想させるものです。
つまり、ある種の「ミニマリズム」以上に、人々に豊かさの本質について再考させる力を持つ可能性があります。
表面的な美よりも、内面の成熟が評価されるような社会を目指すべきだという視点。
それは、消費社会がもたらす虚栄心から解放され、心の平穏を追求する新しいウェルビーイングの在り方を示唆するでしょう。
その結果、「不足の美学は充足の自由と相対するもの」として、国際的にも大きな支持を集めると考えられます。
「身の回りのものを整理することで、心や時間の余裕が生まれ、気持ちのゆとりや良好な人間関係に繋がる。」
例えば、不足の美学を象徴するものとして、断捨離という言葉があります。
それは、不要なものを捨てて物への執着を手放し、身軽で快適な生活を目指す考え方です。
「こんまりメソッドは、捨てるものを選ぶのではなく、ときめくものを残す作業です。」
そこで近藤麻理恵さん(こんまりさん)は、断捨離という思想をアップデートすることで、独自の片付けメソッドを提唱しました。
その結果、著書『人生がときめく片づけの魔法』は世界40カ国以上で翻訳され、シリーズ累計1,400万部を超える世界的大ベストセラーとなっています。
これはまさに、断捨離という美学を充足の自由と融合させた事例と捉えることが出来ます。
つまり、純度100%の不足の美学ではなく、充足の自由と和洋折衷をすることで国際的な支持が得られるということでしょう。
「私にとって必要なものを取り戻し、私の不足するものを補う。」
これにより、過剰な消費や浪費を抑制し、物質的な豊かさから精神的な満足感への転換をより身近に体験することが可能になります。
すなわち、「希望を身近にしたこと」が近藤麻理恵さん(こんまりさん)の素晴らしさであると捉えることも出来そうです。
「グローバリゼーションがもたらす文化の均一化と多文化共生の矛盾をどう克服していくのか?」
とはいえ、文化の均一化が進む中で、特定の文化的価値が「商品」として輸出され、原形が歪められる現象が加速していることは間違いありません。
緩いビザで入国が出来てしまう日本では、多文化共生を進めれば進めるほど自国の伝統や価値観が崩壊するのではないかという懸念の声も高まっています。
そう、つまり、観光立国を目指す日本は多様な価値観を受け入れつつも、「自分らしさをどこにどうやって残すのか?」という課題に直面しているのです。
「多くの国で日本文化への理解が深まっているように見えるが、それは表面的な「人気」に過ぎない。」
すると、移民を受け入れようとする日本において、「異文化特区構想」(造語)が真剣に議論される日も近いのかもしれません。
例えば、多様な文化と共存しようとすれば、異文化間の緊張が生まれ、日本文化の純粋性や一体性が損なわれる恐れがあると。
であるならば、ある地域に外国人を優先的に集めて、免税店や和風文化店を固めて経済特区を作ってしまえと。
少なくとも隔絶さえしてしまえば、日本人が争いに巻き込まれることもなく、慣習や文化的な衝突や変容も起きないだろうと。
しかし一方では、多様な文化と共存することで、異文化理解の感情が芽生えて、日本文化の純粋性や一体性が外国人の中にも芽吹くのではないかと。
だからこそ、隔離などせず日本人は自国の歴史と文化を保持して、一人ひとりが責任を持って真摯に向き合い続けるべきだと。
隔離や共存いずれにせよ、自国の歴史や文化を学ばない日本人よりも、日本文化を愛する外国人の方がよっぽど日本人ではないかとも思えてしまうと。
「税金で支援して隔離するべきか、文化的理解を求めて共存するべきか。あなたはどちらを選びますか?」
日本人を血脈だけで判定して怠惰に流された時点で、多文化共生の推進をしてもしなくても、社会の分断は避けられないものになります。
言い換えれば、日本人よりも日本文化を学ぶ外国人と、そうではない日本人を比較すればするほど、隔離派と共存派は対立していくでしょう。
その結果として、日本のアイデンティティが揺らぎ、「何を守り、何を受け入れるべきか。」という本質的な問いの前に、我々は苦労することになるのです。
現在、クールジャパン政策は「見せない美学」を掲げています。
それは、表面的な価値以上に、内面的な成熟を追求する新しいウェルビーイングの道筋を示唆するものです。
もっと言えば、日本が消費社会や商業主義の誘惑を超越し、精神的な豊かさを重んじる文化として再評価される可能性を持つものです。
「内なる価値観と外向きブランドの両立。」
しかしそこには、「見せるべき日本」と「隠すべき日本」の二重構造が潜んでいます。
こうした現象を前にして、「不足の美学」をどのようにアップデートしていくべきなのでしょうか。
そんなことを考えさせられました。
グローバル経済化に飲み込まれた昨今、日本の文化を守ることと経済活動は二律背反の関係にあると考える
資本主義経済下での文化の価値は「お金になるかどうか?」なので、そこを追求すると文化=金儲けのための道具となってしまう。観光立国、インバウンドを狙う日本は文化(観光資源のひとつ)を経済的利益に替えることなので自然と日本文化は損なわれていくことになる。
またはそれが時代の流れ(グローバル化)の中での必然ならば文化とは歴史とともに変化していくものだから損なわれつつも、その中から本質だけが変化をしつつも生き残るかもしれない。
それらが良いか悪いかはわからないが、決めるのは日本人のはずである
しかし、一番日本文化に関心がないのが日本人という皮肉がその通りだと思えるくらいの現状では日本文化は衰退する一方であると思う。
日本文化を守るために日本文化を担う外国人を育成する、というのも手段としてはよいのかもしれない
文化はその時の時代とともに変遷していく生き物のようなものだから「ハーフやクオーターの日本文化」が今後のスタンダードになっていくような気がする。労働の担い手が外国人労働者になっているように文化の担い手も外国人になってもおかしくはないように思える
寂しいような気もするが
その前に日本文化に一番関心があるのは我々日本人となれば話は別であるが、、、