問題提起
車山神社 宮司・ 宮澤伸幸が祭主のもと、
日下部民藝館(岐阜県)でヌルの神様を祀る計算機神社創建と神おろしの儀式を
落合陽一氏自ら天空の社・車山神社の禰宜(ねぎ)という役職で執り行う。
高山市長 田中明氏も参列し高山市の発展を祈念しました。
―一般社団法人日本文化伝承協会―
「落合陽一さんは、神仏とアルゴリズムの交差点を作り出そうとしているのかもしれない。」
「信仰」と聞くと、私たちは目に見える形や感覚的な経験を伴うものを思い浮かべるでしょう。
荘厳な寺院、静寂の中で響く読経の声、焚かれる香の匂い。
しかし、岐阜県に創建された「計算機自然神社」は、この固定観念に一石を投じるものです。
ここで祀られるのは「ヌルの神様」、つまり「無」という存在。
この神は、存在しないがゆえに無限の可能性を内包する、と提唱されています。
果たして、これは宗教の進化なのか、それとも文化の衰退なのか。
「これは信仰の商業化であり、収益のために著名人を利用する仏教のエンタメ化はいかがなものか。」
一方で、著名なお笑い芸人である千原せいじ氏が「動物供養」の僧侶として活動を開始し、さらに日本仏教協会の顧問に就任したというニュースもありました。
伝統的なイメージが残る仏教界において、千原氏のように芸能人が宗教活動に参画する動きにも賛否両論が湧いています。
果たして、これらの動きは新しい精神文化の萌芽なのか、それとも既存の信仰の形骸化を加速させるものなのか。
宗教とテクノロジー、芸能と精神性が交錯する新たな未来は、これからの私たちにどのような影響を与えていくのでしょうか。
背景考察
「落合さんは以前から、“計算機自然(デジタルネイチャー)”という概念を提唱しています。
近い将来、元来の自然と計算機(コンピューター)が作り出した世界の違いが薄れて“新しい自然”が現れる……という考え方のようです。
この考えをもとに、11月4日に岐阜県高山市の日下部民藝館に『計算機自然神社』を創建し、プレスリリースなどを出していました。
ちなみに、この神社のご利益は『無から有を生み出す可能性の拡大』と『創造性と思考の深化』だそうです」。
―週刊女性PRIMEー
「近年、世界中で宗教がテクノロジーと交わり始めている。」
イスラム教ではハラール認証を持つ食品を見分けるアプリが登場し、キリスト教の教会ではストリーミング配信による礼拝が当たり前になりました。
日本でも、AIが僧侶の役割を担うチャットサービスが話題になったことが記憶に新しいです。
しかし、計算機自然神社はそれらと一線を画するものと考えられます。
なぜなら、そこでは技術そのものが神聖化されるのではなく、技術が生む哲学、つまり「無(ヌル)」が信仰の中心に置かれるからです。
そもそも、「ヌルの神様」とはどのような柱なのでしょうか。
落合氏によれば、これはコンピューター科学における「Null」、すなわち「未定義」を神格化した存在であると。
また、未定義であるがゆえに、無限の可能性を内包するのだと。
「ヌルの神様は、古代の神話に登場する創造神のような存在と言える。」
例えば、ギリシャ神話のカオスは、無秩序でありながら全ての起源とされています。
ヌルの神様もまた、存在しないことを前提にしながら、全ての創造の基盤として機能するのでしょう。
また別の発想から言えば、無(ヌル)は仏教における「空(くう)」の概念と響き合うものがあります。
「空(くう)」とは、全ての存在が無常であることを説きますが、それは「無」を悟ることで得られる平安に重点を置いたものです。
一方、ヌルの神様は、「無」を存在そのものとして再定義し、その可能性を信仰の核心に据えるのだと。
つまり、「存在しない」というパラドックスを神格化する手段として計算機自然神社があるということです。
例えるならば、ヌルの神は「空の箱」と言えるでしょう。
誰もが空虚だと認識する箱の中には、実は無限の可能性が潜んでいるのだと。
では、この考えを日常で例えるとどうなるのか。
現代社会に生きる私たちは、日々のルーティンに埋没しています。
自分の生活に「無」があることを意識することは憧れの1つであり、いつか享受してみたい理想のような幻想になりつつあります。
しかし、無(ヌル)を感じることは意外に簡単なことです。
「スマートフォンを一日だけ手放してみること。」
そう、たったそれだけでそこに「時間」という新たな空虚な空間が現れます。
すると、途端に我々は無という時間に贅沢も儚い無限の可能性を感じ取るのではないでしょうか。
「落合陽一さんが目指す世界観の1つは、デジタルとアナログの双方に、或いは相互作用の果てに、神が宿ることを証明すること。」
つまり、計算機自然神社に祀られたヌルの神とは、空虚の中に無限の魔法を見つけるような存在です。
そしてそれは、消費をすることで満足感を得るという、不安とジリ貧と隣合わせの思想スタイルからの脱却を目指すことにも繋がると言えるでしょう。
「デジタル技術は、人々の信仰を新たな次元へと誘ってくれるが、信仰の商業化や倫理的リスクを内包する。」
しかし一方で、このような信仰形態が持つ課題も無視出来ません。
例えば、計算機自然神社では信者の信仰データが蓄積されていきます。
それはすなわち、信者の祈りや行動はビッグデータとして解析可能になるということです。
では、そのデータはどのように扱われるべきなのでしょうか。
もしもプライバシーの侵害や商業目的での利用が発覚した時、信者の信仰が揺らぐ危険性は無いのでしょうか。
「AIによる祈りの最適化が進む世界で、人間は果たして自分自身の精神性をコントロールできるのだろうか?」
もっと言えば、将来的にそのデータを管理するアルゴリズムそのものに疑問を投げかける必要が出てくるでしょう。
つまり、それは、「私は本当に自分の意志で信じているのか?」という新たな個人の葛藤が生じさせる可能性があるということです。
言い換えれば、「信仰が熱心になればなるほど迷いが生じて、その迷いを分けて鎮めるために、さらに熱心にならざるを得なくなる」のだと言えるでしょう。
「ヌルの神様は、単なる哲学的な挑戦にとどまらず、宗教そのものの未来を象徴しているのかもしれない。」
しかしながら、嫌悪感だけで否定することはおかしな話です。
少なくとも私は、宗教とテクノロジーが結び付くことはすでに始まっており、止められないものと考えるべきだと思いました。
「果たして、私たちは無を信じる準備ができているのだろうか?」
だとするならば、ヌルという存在は、私たちに準備を促すものとも捉えることが出来るのではないでしょうか。
「千原さんの活動が批判される背景には、日本仏教協会が展開する座禅や婚活イベントなどの商業的活動への疑念があるからだろう。」
一方で、千原せいじ氏の僧侶活動には、異なる視点からのパラドックスが見える。
動物の供養を目的に僧侶となった彼は、仏教界の新たな顔となることで、信仰を一般大衆に浸透させる役割を担っています。
しかし、これが「信仰のエンターテインメント化」という懸念を呼び起こしていると。
それは、つまり、信仰が商業活動と結びついた時、その本質が「損なわれるのではないか?」という可能性を危惧しているのです。
例えば1517年、ドイツのローマ教皇レオ10世による贖宥状(免罪符)の発売は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の大改修の費用を得るためという理由でした。
そして熱心な信者だったマルティン・ルターは、カトリック教会の腐敗に耐えられなくなったことで後世に影響を与える活動家に転身していきました。
仏教と神道。
それらは、日本人の日本人らしさを構成する要素と言っても過言ではないほどに、根付いたものです。
例えば仏教では「魂と肉体は別」と捉えられています。
故人を思い、冥福を祈って送り出せば、魂は次なる生を受けて輪廻転生していくものと考えられています。
そのため、仏教の埋葬方法は火葬で行われます。
「土葬を認めてくれない日本社会は冷たい。日本はレイシズムの国だ。」
ちなみに日本で土葬は法律で禁止されていませんが、自治体からの許可が必要で、地域によっては条例で制限されています。
しかし、イスラム教では土葬が戒律上義務付けられています。
日本で暮らすイスラム教徒が、土葬可能な墓地が不足していて困っているのだとマスメディアは語ります。
そしてSNSでは、断られたことを背景に「日本はレイシズム国家」だと言われてしまう現状。
「多文化共生とは、郷に入っては郷に従えではなく、弱者とされた者の言い分を四の五の言わずに認めなさいと言わせるための方便だった。」
郷に入っては郷に従えとは、よその土地や新しい組織に入ったときに、その土地や組織の風習や習慣、方針に従うべきということわざです。
森羅万象に敬意を払い、秩序を重んじる日本人にとって、これを一方的に破られることほど屈辱的なことはありません。
つまり、相手が敬意を払って馴染もうと努力する姿をその目で見ない限り、「わがままにゴネ得をするような人間」に対して、日本人は心を開かないということです。
侮蔑されたとしても、「それは差別ではなく区別だ。」と断じるはずで、政治家が国民の総意を無視しない限り覆らないものと考えるべきでしょう。
ちなみに近年、多文化共生が弱者という立場を利用した横暴な文化押し付け理論だったのだという考え方が欧米を中心に広まっています。
SNSを経由して、この認識が多くの日本人に伝来するのも時間の問題です。
すると動物の供養専門とはいえ、仏教の僧侶として活動する千原氏には応援の声も挙がるでしょう。
しかしその一方で、その禍福を背負う覚悟が伝わらなければ納得できないと言う人もまた現れることでしょう。
「計算機自然神社は、地域社会に複雑な影響を及ぼしていくだろう。」
計算機自然神社が掲げるご利益。
「無から有を生み出す可能性の拡大」と「創造性と思考の深化」、それは、デジタルネイティブ世代の心を捉えます。
しかし一方で、岐阜県高山市の伝統的な町並みに突如として現れたこの新しい神社は、地域の文化や精神性と共鳴するどころか、新たな断絶を生んでいるようにも見えます。
「計算機自然神社は今までの神社巡りの概念を変えるもので、アナログとデジタルの空間が一体化した際の新たな信仰の形態を体験する場所だ。」
例えば、都市部から訪れた若い観光客の中には好意的な意見を持つ者も少なくありません。
しかし地元人からは、「若い人がデジタル技術を持ち込むのは良いが、我々が理解できない信仰を押し付けられるのは困る。」といった声が挙がります。
計算機自然神社は地域再生の可能性を秘めつつも、同時に既存の文化と価値観を分断していく。
つまり、それは、将来的に「共鳴」と「疎外」の同時進行が起きるということです。
また、千原せいじ氏の活動もまた、地域社会と信仰の新たな軋轢を象徴するでしょう。
動物供養を契機とした彼の僧侶活動は、その理念の美しさと裏腹に、日本仏教協会という比較的歴史の浅い団体の商業的活動への疑念を呼び起こすからです。
「芸能人を使って収益を上げるためのビジネスなのではないか?」
この批判の裏には、「信仰は純粋であるべきだ。」という社会通念が存在しています。
しかし、この「純粋さ」という基準は、果たして現代において現実的なものでしょうか。
宗教法人が寺報をオンラインで発信し、ウェブサイトを用いて信者を集める時代において、信仰と商業の境界線を定義するのは非常に困難です。
例えば、地方都市の過疎化に直面した寺院が、その存続を維持するためにデジタル化を進めることには、ある種の「やむを得なさ」がある。
しかし、これが大都市の宗教法人に適用された場合、「商業的過ぎる。」と批判されるのはなぜなのか。
この矛盾こそが、宗教とテクノロジー、芸能と精神性が交錯する新たな未来で起きる倫理的ジレンマと言えるのではないでしょうか。
また、もしも将来的に「無を信仰する行為」がスタンダードになっていった場合、信仰を個人化し過ぎるという危険が付き纏うでしょう。
なぜなら、従来の宗教が共同体との繋がりを重視してきたのに対し、「無」を信仰する計算機自然神社は、個々人の創造性や内的探求を強調するからです。
これが、信仰の社会的役割をどのように変容させるのか、そして、その影響がどれほど深刻なリスクを抱えていくのか。
我々はこれについて、もっと真剣に考えるべきだと思います。
そして、世界のデジタル化が進むほど、信仰そのものがデータやアルゴリズムに依存することになることは避けられないものになるでしょう。
すると、デジタル技術を操作する企業や団体が、信仰の形や方向性をコントロールする危険性も考えられます。
つまり、それは、「無から有を生む」という理想が、実際には「有から有を管理する」という現実にすり替わる可能性を孕んでいると言えるでしょう。
そんなことを考えさせられました。
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