「どこまで行っても刀は刀。人を切るためだけに在る刃物。刃物として与えらえた命を全うしてこそ美しいのですな。」
井上雄彦『バガボンド』には、芸術性と実用性の狭間について考えさせられるセリフがあります。
刀とは何かについて、ここから二つの観点が浮かび上がります。
一つは、刀を規範として捉える観点。
もう一つは、刀を武器として捉える観点です。
刀は武器として生み出されたのだから、武器として殺傷する力があればあるほど刀らしいといえます。
その一方で、剣道や武士道という言葉あるように、刀を規範と捉える人もいます。
何かを追求することは善きことなのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
こだわりや研鑽という側面で捉え直せば、多くの人が頷くのではないでしょうか。
しかし追求とは、やがて美しさに辿り着き、時として美しさは道徳規範を凌駕する場合があります。
「剣こそすべてと口にされる方はたくさんおられますが、本当の意味で剣こそ己と生きている人は稀。そういう人は余計な色がつくのを拒む。」
色は、例えるなら芸術でしょうか。
芸術品の価格を見る度に、その基準とは何かという問いに迫られます。
なぜ、その価格なのだろうかと。
芸術が、あくまで主観的で絶対的な価値規定に沿っているのと同じように。
もしかしたら、刀を生き様と捉えた人々が求める規範もまた主観的で絶対的なのだとすれば。
「美しいならば、人を切って良いと思っているのも事実。」
言ってしまえば、人を殺めることさえも。
しかしそれは、社会的に人道的に許されない行為として認知されています。
とはいえ、殺める理由によっては肯定されることがあります。
例えば、大切な誰かや何かを守るための殺傷です。
大義名分を背負えば、刀は殺生のための武器として受け入れられていく。
それはつまり、大義名分という美しさが非人道的行為を正当化させているということです。
ここであなたにも考えて頂きたいことがあります。
芸術と武器、両者の共通点はどこにあると思いますか?
私はそれは、研ぎ澄ませて行けば行くほど孤独に陥ることだと考えました。
美しさは周囲から理解が得られず、過ぎた暴力は社会から疎ましいものになっていく。
それは、つまり、どちらも突き詰めれば美しさに辿り着き、美しさとは孤高の世界を感じさせるものだということです。
ここまで来ると、いよいよ刀とは本当に刀なのかを問い直す必要が出て来ます。
「私はね、武蔵殿。刀を究極に美しくあらしめるためにはーーー刀であってはならないような気がした。」
刀とは何か。
それは、規範でも武器でもなく、そもそもそれらを発露させるものなのでしょう。
すなわち刀とは、何かと何かの間を媒介し触媒するものだということです。
「私はあなたが思っているような人ではないかもしれない。でも不思議なんだけど、あなたの声を聞いていると、やさしい気持ちになれるの。」
触媒としての刀は、人々の心や感情、価値観を映し出す鏡のような存在です。
また同時に、刀は人々の歴史や文化、伝統を保存するものでもあります。
つまり、言い換えれば、媒介し触媒する存在には介在価値が宿るということです。
求道者は望むと望まずとに関わらず、引力の磁場を生み出していく。
それは、潜在的に、心が安らぐ友と隣人を探し求めているからです。
だから、メッセージに気付き、出逢った縁は一生の宝になるのでしょうね。
あなたの周囲には、刀のような存在がいますか?
※井上雄彦 とは ※バガボンド とは ※ZARD とは
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