事例分析

【CASE52】「見えない介護者」たちの物語

問題提起

「彼らの存在は、まるで厚いガラスの壁の向こう側にいるかのようだ。」
もし、あなたの部署で、いつも定時で帰るあの若手社員が、実は夜な夜な家族の介護に追われているとしたら?
もし、SNSのタイムラインで流れてくる「素敵な家族」の投稿の裏で、家族の誰かが誰にも言えない重いケアの責任を一人で抱えているとしたら?

見えるはずなのに見えない。声が聞こえるはずなのに、届かない。
彼らが抱える苦しみは、私たちの誰もが直面しうる「未来の自分」の姿なのかもしれません。

私たちは皆、SNSの「いいね!」の数や、仕事の成果、華やかなイベントの成功といった、目に見えるものに価値を置く傾向があります。
しかし、私たちの社会の基盤は、「見えない労働」や、誰にも語られない「個人的な犠牲」の上に成り立っているものです。

これは、遠い国の物語ではありません。
今、この瞬間にも、あなたのすぐ隣で、静かに、しかし確実に広がり続けている、「見えない介護者たち」の物語です。

それは、私たちの未来にどのような影響を与えるのでしょうか。


背景考察

「その冷徹な数字が物語る現実から目をそらすことはできない。」
今、日本社会には、かつて経験したことのない高齢化の荒波が押し寄せています。

1970年代には約6割を占めていた三世代同居世帯は、2020年にはわずか1割程度にまで減少しました。
これが意味すること。
それは、かつて「家族が家族を看る」という伝統的な介護の担い手が、物理的に分散したことを意味しています。

「毎年およそ10万人もの人々が介護離職している。」
介護のために仕事を辞めるという事実は、言葉以上のインパクトを孕むものです。
それは、個人のキャリアを断ち切るだけでなく、熟練した労働力が社会から失われると。
つまり、日本経済にとって計り知れない損失を生むことを意味しています。

そしてもう一つ、より衝撃的な「見えない介護者」の存在が、今とても大きな課題になっています。
それが「ヤングケアラー」です。

「中学生の約17人に1人、高校生の約24人に1人がヤングケアラーである。」
厚生労働省と文部科学省の2020年度調査によれば、クラスに2人のヤングケアラーがいる。
彼らは、放課後や週末も自由に遊ぶことも、勉強に集中することもできず、時には学校を休んで家族の世話をする。

まるで、大人たちが演じる劇の舞台裏で、必死に小道具の準備をしている子どもたちのようです。
彼らの多くは、その状況を誰にも打ち明けられず、「家族の秘密」として抱え込んでいる。
なぜなら、「家族を助けるのは当然」という、社会の根深い「良識」の目が、彼らの口を閉ざしてしまうからです。

「私たちは、スクリーンに映る架空の物語に夢中になる一方で、現実の隣人が抱える「見えない苦闘」に鈍感だ。」
これは、人気アニメの登場人物が、表向きは明るく振る舞いながら、裏では重い宿命を背負っている姿と重なります。
例えば、ヒーローが世界の平和を守る裏で、実は家庭の事情でボロボロになっているような。
或いは、動画配信者が、常に完璧なコンテンツを届けながら、その裏では過労死寸前の過酷な労働を強いられているような。

「そんなに羨ましいなら、◯◯ちゃんの家の子になりなさい。」
そもそも私たちは、なぜ「家族の介護」を「家族の私事」として捉え続けてきたのでしょうか。

それは、子どもの頃に「家族のことは自分たちで解決すべき」と教えられているからです。
そして大人になって、「自分の親だから自分で責任を持つ」ことを当たり前に受け入れていく。
つまり、「家族の絆」という普遍的な価値が、同時に「家族の抱え込み」を正当化する口実となっていると。

「家族だから当然のこと。」
その言葉の陰で、個人の尊厳や自由が静かに蝕まれていくことに、私たちはあまりにも無自覚です。

「人が実際に何を行うことができ、何であることができるか(実質的自由)で個人の幸福を評価すべきだ。」
インドの経済学者アマルティア・センとアメリカの哲学者マーサ・ヌスバウムは、ケイパビリティを提唱しました。

ヤングケアラーや介護離職者は、まさにこの「能力(ケイパビリティ)」を奪われています。
学業に集中する能力、友人と交流する能力、キャリアを継続する能力――。

これらは、彼らが家族のケアに時間を奪われることで失われている、かけがえのない「実質的自由」と言えるでしょう。
しかし、社会は彼らのケアを「家族の助け合い」という美談として捉えがちで、その「能力の喪失」には気づきにくい。

家事、育児、そして介護。
ヤングケアラーの活動は、「インビジブル・ワーク(見えない労働)」と表現されています。
つまり、社会を支える上で不可欠な労働なのに、賃金が支払われず、その経済的価値が評価されていないと。

高度経済成長期に、「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という性別役割分業が強化されました。
言ってしまえば、介護も育児も「家庭、特に女性が担うもの」という前提が深く刻み込まれたと。

そして介護保険制度の導入は「介護の社会化」の第一歩でした。
しかしそれは、家族介護を「補完する」という思想が根底にあり、完全に「代替する」ものではなかった。
その結果として、制度の「隙間」に、ヤングケアラーや介護離職者といった、新たな「見えない介護者」が生まれてしまったのです。

私たちは、哲学的には「個人の尊厳」を謳いながら、現実には「家族の絆」という言葉で個人の犠牲を求める。
しかし経済的には「生産性向上」を唱えながら、その足元を支える「インビジブル・ワーク」の価値を無視してきた。

この矛盾こそが、この問題の「裏の顔」であり、私たちが直視すべき深層因果なのです。


まとめ

私たちが辿ってきた旅は、いかがだったでしょうか。
見えないはずの「介護者たち」の声が、ガラスの壁を越えて、少しでもあなたの心に響いたのなら幸いです。

ヤングケアラーや介護離職という現象は、単なる社会問題ではありません。
それは、私たちが長年信じてきた「家族」のあり方、そして「社会」の役割そのものが、今、大きな転換期を迎えていることを示すものです。

「ケアは家族の私事である。」
この通説が、もはや現代社会では破綻しつつあります。

すると今後は、ケアを社会全体で支える「ケア・コモンズ」(造語)という新たなパラダイムシフトが求められているのではないか。
それは、空気や水、道路や公園のように、私たち誰もが当たり前に利用し、誰もがその維持に貢献するべき「ケアの共有地」です。

「ケアは、個人単位か社会単位のどちらで進めるべきなのだろうか?」
この問いを、あなた自身の日常に持ち帰り、ぜひ友人やご家族と語り合ってみてください。

それでは、また次回もよろしくお願い申し上げます!!


用語解説(Glossary)

  • 介護離職: 家族の介護のために、仕事を辞めること。年間約10万人が経験する、個人のキャリアと社会の労働力に大きな損失をもたらす問題。
  • ヤングケアラー: 18歳未満の子どもが、家族の病気や障がいなどのために、大人のようにケアや世話を担うこと。学業や遊びの時間が奪われるなど、子どもの権利侵害につながる場合もある。
  • インビジブル・ワーク: 賃金が支払われず、その経済的価値が社会的に認識されにくい労働。家事、育児、介護などが典型例で、社会の基盤を支えている。
  • ケイパビリティ: 人の幸福や豊かさを、単に経済的な豊かさだけでなく、「その人が実際に何ができるか、どんな生き方が選べるか」という実質的な自由で評価する考え方。アマルティア・センやマーサ・ヌスバウムが提唱。
  • 性別役割分業: 社会の中で、性別によって仕事や役割が決められている状態。日本では「男性は仕事、女性は家庭」という考え方が、ケアの負担を女性に集中させてきた歴史がある。
  • 介護の社会化: 育児や介護といったケア労働を、家族の私的な責任から社会全体の公的な責任として分担していく考え方。介護保険制度はその第一歩。
  • コモンズの理論: みんなで共有して使うことができる資源(コモンズ)を、人々が協力してルールを作り、持続可能に管理できることを示す理論。エリノア・オストロムがノーベル経済学賞を受賞。
  • ケア・コモンズ: 本稿における新概念。ケアを単なる個人や家族の課題ではなく、地域社会全体で維持・管理・享受すべき「共有資源」と捉え、その持続可能な運営を目指す社会モデル。

 

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コメント

  1. 古澤 泰明

    少子高齢化により今後、後期高齢者の介護問題がより深刻になるであろう
    政策は多数派層に優しくなるのは間違いない。そうしないと選挙に勝てないからだ
    介護ができないから老人を施設に預ける
    そのため新しくできる立派な建物は老人ホームというのが私の住む地域でもよく見受けられる。そんなに儲かるのだろうか?
    補助金が受けられるからこそ成り立つビジネスモデル(老人介護をビジネスと呼ぶのもどうかと思うが)とも聞く
    果たして実態は?
    そもそも、そんなことすら我々が知らないことに問題がある
    財源がなくなり、施設に安く入ることができなくなる、また、介護保険制度も近い将来、大改正が必要になるとも言われている
    年金の信頼感も極端に乏しい
    出生数が70万人を割り、少子化が予測より10年以上前倒しで到来してしまった今日、
    どう考えても現状の制度が行き詰まるのは明白なのに変えられないのはなぜか?
    それは先に上げた現行の選挙制度がひとつの大きな要因であるとは思う
    しかし、悲観するだけでは意味がないので私なりの解決策をあげる

    1.生かされる権利の放棄と死を選ぶ権利を認める
    健康寿命が終わり、残念ながら寝たきりや重度介護になってしまった場合、本人の意思を尊重し死ぬ権利を認める
    2.延命治療の見直し
    人工呼吸器の装着や脳死判定による死んだ状態に近い患者に対し、治療を中止する本人の意志表示を健康なうちに法的に証明しておく制度を作り、本人の希望しない延命治療をなくす
    3.死に対する教育制度を実施する
    いかに生きるか?ということと同じくらいいかに死ぬか?を考える教育を実施する
    これを実施することにより上記の1と2を社会で考え、認めていくことにつながると考える

    死を極端に遠ざけている現代であるからこその社会問題である。死とはなにか?を見つめ直し考えることでよりよく生きる道も見つかるのではないかと思う
    ある医師が話していたが「老衰、という死因がなぜなくなったか?医療が発達しすぎて医者にかかり、延命されるからだ」と話していたのを聞いて妙になっとくした
    医療、介護でさえもビジネスとなっており、それに知らず知らずのうちに取り込まれているのではないか?
    「いかに生き、いかに死ぬか?」
    生かされていることが実感しづらい今だからこそ、これを皆で考えることが必要なのかもしれない

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