今回は、「家族関係」の観点から、「共生社会」について考察していきます。
問題提起
アメリカ退職者協会(AARP)のヴァイスプレジデントは、「団塊の世代が高齢化するに連れて、複数人でシェアをしている住宅の数は増えている」と、同紙に語っている。
実際、高齢になってからのルームシェアに対して、人々はかつてないほどオープンになっているようだ。
50歳以上を対象としたAARPの2021年の調査によると、70%以上が「配偶者以外の家族や親戚とのルームシェアに抵抗なし」と回答している。
また、51%が「友人と同居したい」、6%が「見知らぬ人と同居する意志がある」と答えている。
「配偶者以外と一緒に住む気はない」と回答した人たちも、そのうちの23%が「お金が必要になった場合はルームシェアを考える」と回答している。
人口調査局によると、1960年にはアメリカの世帯の85%が「家族」で構成されていたが、 その数字は2017年までには65%に減少している。
―クーリエ・ジャポンー
「いま、都市における異世代ルームシェアリングが新しい“共生”の形として注目を集めている。」
アメリカでは、退職金や企業年金というセーフティーネットなしにリタイアする高齢者が増えています。
すると、食費や住宅費、保険費用といった上昇し続けるコストをどうカバーしていくのかは、彼らにとって大きな考慮事項とならざるを得ない。
そこで、アメリカのシニア世代は家賃高騰や医療費の負担増を背景に、経済的に共に支え合えるルームメイトを探すことが一般的となりつつあるようです。
またその一方で、若年層も学生ローンや住宅市場の高騰により、ルームメイトとの生活を通じて生活コストを抑えようと考えています。
しかしながら「シェア」という現象は、単なる経済的な合理性から来る選択ではありません。
そこには、心理的な孤立を埋めるという役割も期待され、シニア世代の孤独や若年層の社会的つながり不足に対する欲求と見ることも出来るでしょう。
ここで重要なのは、「共生」という響きの良い言葉の裏に隠された、見過ごされがちなリスクとジレンマです。
そう、つまり、果たしてこの新しい共生形態は、孤立を解消し、豊かな共同体を生み出すのか。
それとも、世代間の価値観の摩擦や依存関係の不均衡によって、孤独を増幅させる罠と化すのでしょうか。
すでに50歳以上の約7割がルームシェアリングに対して抵抗がなく、また約5割が友人と同居することを求めている。
そして20世紀は約8割の世帯が家族で構成されていたが、21世紀は約6割にまで減少している。
このルームシェアリングの拡大と家族関係の変化は、未来の私たちにどのような影響を与えていくのでしょうか。
背景考察
ピュー・リサーチ・センターが2022年に発表した調査によると、アメリカ人の約18%が、異なる世代の成人と一つ屋根の下に暮らしている。
1970年代に比べてこの数字は4倍に増加しており、アメリカでは現在、約6000万人が異なる世代の成人とともに暮らしているという。
住宅市場の高騰により、家賃の負担は若者にとってますます大きなものとなっている。
また、高齢者はこれまで以上に、自分らしく過ごせる場所で年齢を重ねることを望むようになっている。
こうした状況が、世代をまたいだ同居が増える一因となっていると、世代と世代をつなぐ活動をしているNPO法人「ジェネレーションズ・ユナイテッド」のドナ・バッツは述べる。
―クーリエ・ジャポンー
「ルームメイトと初めての共同生活を経験する若者が、成熟した老人の価値観に触れ、時には衝突しながら成長していく。」
異なる人生観や生き方を持つ高齢者と若年層が一つの生活空間を共有することで新しい視座が生まれる。
それは、冒険小説のプロットに必ずといって言いほど組まれている異文化交流とその美談が見え隠れするテーマです。
そして現実的に見てもその相乗効果には目を見張るものがあります。
例えば、お互いの家賃負担を抑えるだけでなく、日々の些細な会話や共に過ごす時間が、彼らの人生に新たな色を添えていくと。
或いは、引退した70代の高齢者が自身の人生経験や哲学を若いルームメイトに語り聞かせ、逆に若年層からは最新の技術やトレンドを学び取る場面が想像されます。
共に食卓を囲みながらの会話は、彼らにとって日常の一部でありながら、世代を超えた「自己形成の場」としても重要な役割を担っています。
それは言い換えれば、異なる人々が身近に交流する機会を持つことで、「社会関係資本/ソーシャルキャピタル」を構築しているとも言えるでしょう。
とはいえ、そこには「シェアリング・パラドックス」(造語)とでも呼ぶべき矛盾も潜んでいます。
それは、お互いの当初KDFの合意形成はされるものの、後にKDFの変容に伴い合意は崩されるというものです。
理想的には、異なる背景を持つ同居人が互いに理解し合い、支え合うことが共生の形であるべきです。
しかし、異なる世代間の生活スタイルや価値観がぶつかると、調和よりも対立が前面に出てしまうことも少なくありません。
例えば、高齢者が生活費の軽減を目的にシェア生活を始めたとしても、無意識に「家族的な絆」を求めることが少なくありません。
また孤独感が強まりやすい高齢者は、ルームメイトに対して家族的な関係性を期待し、時には頼りにしてしまう傾向があります。
すると、生活費を抑えるためにシェアを選んだ若者が、想定外の家事や介護といった負担の重い役割を背負わされる場合もあると。
或いは、若者が夜遅くまで活動する一方で、高齢者は早朝に静かな環境を求めるといった生活リズムの違いが、日々の小さな摩擦を引き起こす原因になると。
それは本来、年長者が若者をサポートする立場であるはずが、この構図が反転し、若者が日常的なサポートを提供し続ける構造が生まれているということです。
この矛盾を視覚化して捉えて行くと、「逆ピラミッド世帯」という新たな家族モデルが浮かび上がります。
それがシェアリング・パラドックスを引き起こす原因であり、若者が「負担の罠」に陥り心理的な摩擦を生じさせる一因となる可能性があります。
果たして、このような家庭は持続可能な共生関係を築けるのでしょうか。
「異世代間のルームシェアにおいては、生活空間とパーソナルスペースの区別が曖昧になっていく。」
家族同士であれば「ファミリー・パーソナリティ」(造語)とでも言うべき、家族間で通ずる集合意識が存在しているのではないでしょうか。
例えば、小学校や中学校で初めて他者と自覚的に接する時に受けるカルチャーショックというのは、ファミリー・パーソナリティの影響だと考えます。
では、シェアハウスの住人同士のパーソナルスペースはどのように変容していくのでしょうか。
どのように尊重して、どこまで干渉が許容されるのか、そして、異なる世代間のルームメイトがどのようにプライバシーを確保していくのか。
その基準は双方合意の基で形成されるものですが、その結果として根本的に家庭とは異なる「シェア・パーソナリティ」とでも言うべき特異な心理的な立場を形成する可能性があります。
つまり、シェア・パーソナリティとはお互いの価値観を1と0で受け入れる関係ではなく、お互いの1と1を新たな2(或いは0)という価値観に融合して出来るパーソナリティです。
そしてこの流れで想起されるのは、「選択的家族関係」という概念です。
それは、血縁関係や婚姻関係に依存しない、意識的に選び取られた共同体のことです。
高齢者と若年層が共同生活を営む過程で、同居するルームメイトは単なるシェア相手を超え、互いにとって不可欠な精神的拠り所となり得ると。
もちろん、家族や恋人といった従来の親密な関係性を置き換えるものではありません。
しかしこの新たな共同体は、同じ時間と空間を共有する中で徐々に信頼と理解を築き、「生活のパートナー」としての機能を果たし始めるでしょう。
すると、この家族でない同居者に対する「法的保護の不足」が問題に挙がると考えられます。
例えば、血のつながりがなくとも日々の生活を支え合い、心の拠り所となる存在に対して、どのような権利と義務が認められるべきなのかと。
つまり、相続や財産権に関する問題、生活のパートナーとしての関係性が法的に保護されるべきかという論点が浮上して来ると考えられるでしょう。
異世代間のルームシェアリングが一時的なトレンドに留まらない理由は、まさに選択的家族関係という概念がもたらす影響の大きさにあります。
なぜなら、各国は家族の枠を超えた新たな家族形態に対して、法律的な権利の整備が求められる時代が到来を告げているからです。
例えば、この傾向が広がれば異世代間の相互依存型エコシステムが都市部で一般化し、高齢者と若者が共に生活支援を行うモデルが主流となる可能性があります。
それは、都市型共同住宅が自治体によって公共インフラとして提供され、自治体主導のルームシェアプログラムが実施されることで、次世代型の共生社会が形成されるということです。
その時、自治体側は健康維持や認知症予防、心理的孤立の解消といった福祉的機能を内包することを狙いとして挙げるでしょう。
もしこのように、選択的家族関係とシェアリング・パラドックス問題が普及すると、このような生活のリスクを回避するための「相互扶助の契約」が求められる可能性があります。
それは、ルームメイトが心理的・経済的に支え合う一方、予期せぬ摩擦や依存が生じる可能性を考慮し、互いの役割や負担を明確にする契約です。
この契約によって、同居者間の公平な関係を保証し、過度な依存関係が発生しないよう調整するのかもしれません。
「基準なくして共生の道はない。」
例えば、70代の高齢者が20代の若者に対して家事や買い物を頼む際、その頻度や対価を事前に明文化しておくことで、双方の負担が不平等にならないような配慮が可能になる。
また、高齢者側も「選択的家族関係」を意識しすぎることで、若者に親密すぎる依存を求めないことなど、「支援」や「共生」の基準を作るということです。
私たちは、共生が持つ心理的負担や経済的な依存関係を乗り越えるために、個々の価値観と社会的支援がどのように折り合いをつけられるかが問われています。
しかし、その実現には依然として課題が山積しています。
「共生と孤立の境界線がどこにあるのだろうか?」
私たちは、この問いに対して真摯に向き合い、異世代の共生が単なる経済的な合理性に終始するのではなく、互いに支え合う社会的な基盤となるように知恵を絞り続ける必要があるなと。
そんなことを考えさせられました。
今回のブログは非常に近い将来、現実になっていくテーマであると感じました、特に日本で
シェアハウスは外国では実際に賃貸形式で普通であり、私も海外滞在中は利用した経験があります
さらにはバックパッカーズホテルでは1部屋に2段ベットが4〜6台置いてあり、旅行者が泊まるのですがトイレ、キッチン、食堂、バス(シャワールー厶)は共用なのでプライベートな空間がないのです(今思えば若かったから苦も無く泊まれたのかなと思います)バックパッカーズホテルでは意外と旅行者同士のトラブル(盗難など)は少なかった気がします。あるとすると外部からバックパッカーズホテル荒らしみたいなのが入ってきて金を盗む、外部の人間の犯罪はよく聞きました。旅行者の暗黙のルールみたいなものを感じました。(それを守れないとお互い安全な旅ができませんので自然とルールや助け合いがありました)
こんな経験をした私からすると老人の孤独死が問題になっている昨今、シェアハウスで助け合いながら過ごす形体も有りだと考えます。ただ、シェアハウスとはいえ必ず他人と画さなければいけない一線がありますので、住人がそれを守れるか、お互いを尊重し合う関係を作れるか?など、普通のアパートよりも道徳性の高い人たちのほうがシェアハウスでうまく生活できるかもしれません
となると住人の相互学習型のシェアハウス
たとえば引退した経営者が起業を志す青年たちと住んで教えるとか
合宿の延長?のようなサービスの提供もビジネスになるかもしれません
支援に関して、「やらなくてはいけない」と感じるか、「やってあげたい」と感じるか。
ここに窮屈に感じるかどうかの分岐点があるのかもしれない。
内発的な動機で支援を行うためには、誰かに助けられた経験が必要なのだろう。
そして、特に子供時代に大人から助けてもらった経験が、その後の価値観に大きく影響するのではないだろうか。
例えば本日行われている兵庫県知事選において、学生支援に力を入れていた前知事に感謝の念を抱いた高校生たちが
有権者となった18歳以上の若者に向けて選挙に行くように声掛けを始めているらしい。
先に手を差し伸べるのは誰なのか。
これを誤らなければ共生の道が拓けるのではないだろうか。
そう考えると、新たな展望が広がりそうです。
お久しぶりです。今回のブログも楽しく拝読いたしました。
老若男女型シェアハウスの台頭ということですが、
シェアハウスの最大の壁は『異文化の受け入れ』だと感じています。
異なる幼少期を過ごした文化的に違う人が集まって暮らすわけで、生活スタイル、基準、価値観、全てが違うのが常です。
同じ言葉こそ使っているが、表しているものが違っていたり、細かな部分ではゴミ出しをするタイミングが違ったり。
それらをすり合わせていく心を双方が持っていない限り、成り立たないのがシェアハウスだと感じています。
(同棲も一種のシェアハウスですしね。)
現代社会に欠落しつつある道徳や倫理が、ますます重要性を帯びてくるのだと感じました。